第92話 親は悲しからずや(2)

文字数 816文字

 風薫る季節のような交流が10年余り続いた。
義母は歳をとって旅ができなくなった。
認知症もひどくなったが、施設に入って貰う気には
なれないと、義妹は退職して義母を介護していた。その内、
病気の発症も重なってやむを得ず、症状に適った施設で
お世話になっていると、知らせてきていた。
「お義母さんがだいぶ弱ってきたようです」義妹から連絡があった。
昭和58年晩秋のひと日、義母の入居する施設を訪ねた。
義母は綺麗な部屋でえびす顔をして伏せていた。
「お義母さん四国から義兄さんと義姉さんが来てくれましたよ」
「ほーう」と言うだけで何も理解していない様子である。
一方通行と知りつつ何か話さずには居られなかった。
何を言っても「ほーう」である。
話しながら別れの近いことを全霊で受け止めていた。
帰りの列車の時間が迫ってきた。動揺する心を沈めてそっと手を出した。
「帰ってくるけんな、またくるけんそれまで元気でいて」
手を握ったら、はっきり握り返してくれた。
この分だとまだまだ大丈夫だと少し安心した。ところが賢治が
「帰ってくるれんな」と言った途端に
「あんたは去んだらあかん。ここに残りな」
賢治の声で認知の靄が晴れたのか? 不遇な子に手を取られたことによって
一瞬の晴れ間を見たのだろうか? 何もかも忘れて忘却の彼方にいるというのに、
半世紀も昔の別れの場が蘇ったのだろうか。賢治の手を離さない。
「2度と離してなるものか」それは、もう会えないと思う魂の伝達だったのかも知れない。
脈々と打つ血の流れに過去になった日々を重ねていた。
 40年に及ぶ親子の断絶はあったが、生きていればこそ再開することもできたし、
義弟夫婦に手厚い孝養も尽くしてもらえたのだ。生きることは谷や絶壁も越えねばならない
こともある。山に登れば降りねばまらぬ。概ね人の世に波乱はつきものである。
「お母さん今度こそ離すんでないよ」心で叫んだ。目頭が熱くなった。
 それから3日後、義母は振り向かずに虹の橋を渡った。












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