ものもちが良い家2

文字数 1,270文字

昔は、物持ちが悪い。誰に似たんだ。母親の血だ。家の血じゃない。出来損ないは母親似だ。と、言われ続けてきましたが、独り立ちしてからは物持ちが良くなりました。
使ったものは定位置に戻す。掃除、洗濯、食事作りやお菓子作りは息抜きになりますし、何よりも、綺麗な家で生活することは精神的に余裕を生んでくれますし、精神的にも何かをしようと思わせてくれます。

読書や勉強も怯えなくて良い事、食事取れることで、意欲的に取り組めていて、しっかり記憶に定着してくれています。
昔は、朝ごはんを食べるのは年に2度くらいなもので、ご飯を食べられるのが給食だけだった時期もあり、授業を聞いているというよりも、ラジオをぼんやりと聞き流している。黒板を移しているだけ。の状態でした。
馬鹿。頭が悪い。と沢山言われてきました。間違ってはいないのですが、他の部分で協力もしてくれない人に言われたくありませんし、どうして栄養や環境についての考慮ができなかったのかは、先程も言った通りに、私は家族にとって優先順位が低く、蔑ろにしても良い人間だったからでしょう。

息抜きにお菓子作りもできるようになり、シュークリームや、タルトタタン、アップルパイも定期的に作るようになりました。
将来の夢はパティシエ。なんて言っていた時期があったし、汚い台所でクッキー作りに励んだこともあるのですが、虚しさで悲しくなることの方が多かったです。
子供の頃の夢を大人になって、自分で叶えることができたことが嬉しいですね。

お風呂掃除ですが、家の人間がしているのを見たことがありません。
幼少期から、私が掃除して、皆がありがとうと言うだけの構図でした。
ありがとうも、良くやった。と、煽てておけばやってくれる。という意味が含まれていたことでしょう。
私がお風呂を掃除していると、父が2階の部屋から降りてきた足を止め、言葉も挨拶もなく戻っていく様子を常に感じていました。
感謝もしてくれなくなっているのを感じた時は、まあそうだよね。というような悲しいの感情はなく、いつも通り傲慢な人間にしか見えませんでした。

実家で感じたことや覚えたことは、人間の醜悪さです。近隣住民、親戚から蔑ろにされている自分を思い返すと、蔑ろにしても良い人間のあり方をしていました。
大人になり、蔑ろにしても良い人間だと思われない振る舞い、距離の取り方を学びました。
人のことはあまり信用せず、最後に自分を助けるのは自分自身だということです。

基本的には人に期待をせず、期待をしていなければ怒ることも悲しむこともありませんし、精神的に楽だということです。
私は人との共同生活は向いていないタイプの人間だなとつくづく感じます。

今の自分がピラミッドのどの位置にいるのかを俯瞰して考えてみて、そうすると自分が何をしたいか、目指せるのかを改めて考えさせてくれるサポートをしてくれるんじゃないかと感じました。
1つのことを盲信するのではなく、似たような事柄を沢山知った上で考え、結果を出した方が盲目にならなくて良いのではないかと思います。

皆さん良い休日をお過ごしくださいませ。
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