第90話  弥一郎の想い人~翌朝 母

文字数 1,581文字

 三和子は、身だしなみを整えると、女将であり実母でもある邦子の部屋へ向かった。

 邦子は、既に普段着の着物に着替え、いつものように居間でくつろいでいた。
 梅漬けの梅を一個お湯に入れ、お箸で潰しながら混ぜた梅湯をゆっくりと飲んだ後、おもむろに煙草盆を前に引き寄せ、莨入(たばこいれ)から刻み煙草を出し、指先でつまみ丸めると愛用の煙管(きせる)の火皿に柔らかく詰める。
 さすがに、煙草盆の火入れに火を(おこ)した炭をわざわざ入れてはいないが、マッチを点け、遠火で火を吸い込むように煙草に火を点ける。
 三、四服くらいで吸いきってしまうのだが、紙巻きたばこと違い、少量を吸う刻み煙草は、無駄が無く、燃えるのも刻み煙草のみなので紙の匂いもせず、煙草の芳香や喫味を直接愉しむことが出来る。
 吸い終わったら(てのひら)に煙管の雁首を逆さにしてとんとんと軽く打ち付け、吸殻を少量の水を入れた煙草盆の灰落としに捨てる。
 それから、こよりを煙管の吸い口から煙道内に出し入れをし、丁寧に掃除をする。
 煙管の火皿は、こよりを二つに折り、これも丁寧に内部を掃除する。

 邦子は、この習慣を三和子を妊娠した時から続けている。
 三和子を妊娠した時、煙草が吸いたくて吸いたくてたまらなくなり、婿である夫に隠れて吸っていたのだが、そのことを夫が知ると、夫は、こよりを作って毎日煙管の掃除をしてくれたのだった。
 数年前、夫は亡くなったのだが、その事を思い出すと自然と笑みがこぼれてしまうのであった。

 邦子が、こよりでの掃除を終え、煙管を煙草盆の前縁に掛けて脇にどけた時、

 「お母さん、絢乃です。中に入ってもよろしいですか・・・」

 ふすまの外から三和子の声がした。
 このときの「お母さん」は置屋の女将の呼び名であり、三和子が自分のことを絢乃と言ったのも置屋の女将と芸妓というけじめであった。

 「・『みわ』かい?・・お(はい)り・・」

 邦子の返答は、女将のそれではなく、母親としてのものだった。
 三和子は、部屋に入ると、

 「おはようございます。昨夜は申し訳ありませんでした・・・」

 と、頭を下げた。

 「・おはよう・・昨夜のお方は、山崎の弥一郎さんだね・・」

 「はい・・・」

 「・・・いいのかい?・・」

 「はい・・」

 二人とも花街に生きる芸妓であり、母娘である。
 これ以上の言葉は不要であった。


 翌年の二月、京に雪の華が舞う日、三和子は、玉のように可愛い女の子を出産した。
 弥一郎は、「明子」と名付け、認知をした。
 弥一郎は、絢乃だけの旦那となった。

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 作品を読んでくださりありがとうございます。
 弥一郎と三和子が結ばれた後のエピソードも後日触れる予定です。
 今回の話の中で、梅湯が出てきますが、筆者が好きなだけです。
 しかし、朝の梅湯は、昔から行われている習慣であり、女性の冷え性にも良いと聞きますので、年配の方の中には、飲んでいらっしゃる方も結構いるのではと思い話に入れました。
 煙管で吸う刻み煙草やこよりの話は、私の祖母と祖父の実話です。
 祖母が煙草盆を前にして刻み煙草を吸う姿は、よく見ました。
 祖母が、何人目かの子を妊娠した時からだったとのことでした。
 ただし、祖父は婿養子ではありませんでした。
 私が、子どもの頃の随分と昔の話です。
 20数年前ならもう煙管や煙草盆はないだろうと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そこは古い歴史の京都であり、丸の家は老舗の置屋でもあるので、古い道具もあるだろうし、当然茶道にも通じ、茶道具としても揃っているだろうとの前提で書きました。
 今後も、このような今では古い日常の風景を描くこともあると思いますので、事前の設定としてご了承ください。
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