第54話  中島洋介

文字数 3,544文字

 高校を卒業して、42年勤めた東京メディシンを、ようやく無事に定年退職することが出来た。
 入社した頃は、右も左も分からなかったが、がむしゃらに頑張った。
 営業を皮切りに総務、営業、人事と廻り、最後にまた課長として、営業に帰って来たのが10年前だった。

 その時、入社してきたのが山科拓馬だった。
 彼は、天涯孤独で、5才の時から養護施設で暮らし、高校卒業と同時に東京メディシンに入社したのだ。

 10年前は、すでに高卒より大卒での採用の方が多くなり、大卒者は、将来の幹部候補生として経験を積むため、各部を一定年数ごとに異動するようになっていた。
 期せずして、俺は、幸運にもそのコースを歩いていた。
 だが、山科は、入社以来一貫して営業だ。
 俺は、彼にも経験を積ませようと、何度も上に上申したのだが、悉く無視された。

 俺は、各部を廻った経験や、営業のイロハを彼に教え込んだ。
 彼は、全く野心を持たないうえ、自己評価が低い青年だった。
 東京メディシンのような会社でも、入社できたことを感謝していた。
 だが、苦労人でもあった。
 人の心の痛みや機微に敏感で、人当たりが良く、社内の誰もが好感を持っていたと思う。

 所謂(いわゆる)イケメンでもある彼には、女性社員のファンも多い。
 だが、入社して2年目だったか、付き合っていた彼女から(ひど)い言葉で振られたという話を聞いた。
 山科の彼女が勤めていた五菱商事の国内商事部門本部ビルの前で、収入の低さをあからさまに馬鹿にするような言葉だったと、そこに偶々居合わせた総務の女性が話していた。
 それ以来、彼は、女性とはあまり話もしないようになってしまったようだ。

 だが、収入が低いのは確かにそうだ。
 10年前、俺が課長になる前の年収は、800万円だった。
 課長に昇進した時は、嬉しかったな。
 退職する頃は、給与と賞与だけで確実に1,000万円は超える。
 給与以外にも、交際費が年間120万円ついた。
 退職金も、3,000万円以上は確実だった。
 これで、長年苦労を掛けた妻にも、少しはいい思いをさせられると思ったもんだ。

 ところが、末田と沼田が、俺が課長に昇進した直ぐ後会社に入って来た。
 それからは散々だった。
 あいつらは、事業を次々と縮小廃止していった。
 意に沿わない人間は、次々と辞めさせられた。

 収益の悪化を防ぐために、退職金も毎年減額が続き、俺の退職金は、1,500万円だった。
 交際費もすぐに廃止され、夏冬の賞与も大幅に減額された。
 退職する時の年収は、700万円だった。
 業績の悪化を、従業員の人件費の大幅カットで収益を確保した形だ。
 それでも、株主配当額は変わらず、社長と常務の報酬も減額されなかった。

 俺の退職金は、家のローンと学資のローンの清算をして、家の外壁の塗り替え、室内の壁紙の張り替え、床のフローリング、トイレと風呂場の修理、古くなった家電の交換をしたら何も残らなかった。

 泥沼コンビ(山科社長は、奴らのことをこう呼んでいる)は、今回失脚しなかったら、更なる人件費カットを計画していたそうだ。
 こんな二人のやり方に反発して辞めていった者も多い。
 俺のように、50にもなった男は、どこも雇ってはくれない。
 我慢するしかなかった。


 ところが、会社を退職して2ヶ月になろうとしていた頃、親会社の竹田製薬工業の森山副社長から内密に会ってくれないかとの電話があった。
 俺の家まで、送迎の車も出すとのことだった。
 俺は、恐縮したが断る訳にもいかず、迎えに来た社長送迎用のものではないかと思われるような黒塗りの車に乗って、竹田製薬工業に向かった。
 俺は、森山副社長だけとの面会だと思っていたが、通されたのは社長室だった。
 初めて入った親会社の社長室で、俺は、あんなに緊張したことは無かった。

 竹田製薬工業の社長室に通された俺の目の前には、森山副社長だけでなく、竹田社長と社長室長、総務部長、人事部長までいた。
 そのうえ、あの高田里帆人事担当取締役がいたのだ。
 今や、業界いや日本で知らない人はいないと言ってもいい、あの武闘派の女戦士だ。
 最初は少数だった武闘派を、100人にまで拡大し、彼らを使って敵対派閥の不正を完璧な証拠で次々と暴いた。
 果ては、大掛かりな産業スパイ防止法の摘発事件では、社内のスパイは勿論、企業機密を買った国内企業、外国人仲介者や企業機密を買い取ろうとした国外企業の証拠まで掴んで立証したと言われている女性だ。
 さらに、その外国人仲介者は、香港で殺されたと云うおまけまで付いて、正に国際的事件だった。

 俺は、目の前の可愛い顔をした50になるかならないかの女性ににっこりと笑いかけられた時、恐怖で顔がひきつりそうになった。
 辛うじて冷静を装ったつもりだったが、完全に見抜かれたと思う。
 ソファーを勧められたと思うのだが、どうやって座ったのかさえ憶えていない。
 本題に入る前の雑談の中で、東京メディシン時代のことや退職後の事など色々尋ねられたような気がする。
 だが、俺は、雑談どころでは無かった。

 (俺は、何かとんでもない事を仕出かしていたのかもしれない。何をしたんだ?)

 そんな考えが、頭の中でぐるぐる回っていた。
 今考えると、あの雑談は俺の為人(ひととなり)を見極めるものだったような気がする。

 雑談の後、本題に入った。
 ところが、話の内容は、呆気ないほど簡単なものだったが、重要な内容であり、責任重大でもあった。

 近いうちに、末田と沼田を解任するための臨時取締役会を開催する。
 その際に、会議が紛糾した時は、俺にも知っていることを証言してほしい。
 そうならないように努力するが、その時はよろしく頼む。
 と、云う事だった。
 ただし、今日のことは、家族を含めて誰にも言わないでほしい。
 それだけだった。

 俺は、もちろん承諾した。
 断れる訳が無い。
 それに、末田と沼田を解任するためなら喜んで協力する。


 臨時取締役会の当日になった。
 その日も、この前と同じ車で送迎をしてもらった。
 もっとも、帰りは東京メディシンになるとは思ってもみなかったが・・・

 少し早めに竹田製薬工業に着いた俺は、竹田社長たちと挨拶を交わし、臨時取締役会が開かれる会議室の隣にある控室に入った。

 控室には、竹田製薬工業の社員たちが詰めていた。
 部屋の中には、モニターが設置され、隣の会議室が映し出されていた。
 声も聞けるとのことだった。

 俺が案内されて行く席の隣には、青年が座っていた。
 俺は、途中から気付いたのだが、まさかという気持ちの方が強かった。
 その青年の後姿が、山科に似ていたのだ。

 俺が席に近づくと、誰か近づくのが分かったのだろう。
 その青年が立ち上がって、俺の方を向き頭を下げた。

 「お久しぶりです。ご無沙汰しております。二ヵ月ぶりですね」

 「山科か? どうしてここに?」

 「・・あっ、もう直ぐ始まりますね。座りましょう」

 「・・・」

 俺は、黙って座った。
 周りの誰もが、俺たちに注目している。
 特に山科をマークしているようだった。
 山科は、何か申し訳なさそうな顔をしている。

 (何で山科がいるんだ? ひょっとすると末田と沼田の解任に関係があるのか? ・・あいつらに使われて、何か不正の片棒を担いだ? ・・そうだ、あり得る。こいつは人がいいところがある。利用された可能性がある。もし、そうなら末田と沼田は絶対許さん! ・・よし! 俺はどうなっても構わん。山科を庇う。利用されたんだと、俺が言い張って証言してやる!)

 山科の顔を見ると、なぜか嬉しそうにしている。

 (馬鹿か! お前が沈むか浮くかの瀬戸際だぞ! 笑っている場合か!)

 今度は、しょんぼりした顔か? まったく・・・


 臨時取締役会は、あれよあれよという間に終わった。
 俺は、きっと呆けた顔をしていたに違いない。
 事態が、呑み込めなかった。
 思考が、どこからか止まった気がする。

 歓声と拍手が起こり、部屋にいる皆から、口々におめでとうございますと言われて、握手攻めにあった。
 山科と一緒に会議室に連れて行かれ、また拍手された。

 それから、社長室で事の顛末の説明を受け、改めて、東京メディシンの常務就任を要請された。
 いや、この上ないほど丁寧にお願いされた。
 山科、いや、山科さんに対しても社長就任が要請された。
 だが、すみませんでしたと何度も竹田社長たちが謝っていた。
 社長室に入って気が付いたんだが、部屋の中には、五菱商事の弥一郎社長と荘田副社長、それに国内商事部門本部長の吉岡氏までいた。
 その彼らまで頭を下げて謝っていた。

 一体どうなっているんだ?・・・

 俺たちが、東京メディシンに到着したのは、終業の1時間前だった。
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