第61話  闇の守護者~秘事

文字数 4,183文字

 (ただす)は、道行く人に何度か尋ねて、目的の地にようやく着いた。
 直が訪れた場所は、闇市の雑踏から少し離れた所にあった。

 (「兵隊カフェ」か・・・何のひねりも無いような、いや、ひねり過ぎた結果か・・)

 「兵隊カフェ」は、直の元部下が開店した店で、しばらくの間、直の東京における活動拠点となった。

■■■

 直は、戦後投降する前に、先ず、将校たち全員に今後のことについて、直の計画を打ち明けた。
 次に、将校を含めた部下たち全員を幾つかのグループに分けて、日本への帰還後に考えている直の計画を述べた。

 もちろん、計画通りにいかないことも十分予想された。
 直が、あの集落でのことの責任を問われ、戦犯として処刑される可能性があったからだ。
 いや、部下たちも戦犯に問われるかもしれない。

 直は、もし、戦犯で処刑される場合は、一身を引き換えにしても、何としても部下たちだけは助けたかった。
 彼が、米軍の司令官にどのような罰も受けるから、部下たちは助けてほしいと懇願したのは、本心からだった。
 白旗を掲げて直に同行した兵から、このことを聞いた部下は全員が、決して隊長を死なせてはいけないと改めて決意したのだった。

 米軍の取り調べで、部下たちの供述に特に不審な点が無かったのも、彼らが、事前に口裏を合わせていたからで、直が指示したことでは無かった。

 直には言わなかったが、もし、処罰を免れないときは、鈴木勘四郎に次ぐ古参の中尉である村田藤次が、直には無断で出撃し、攻撃の命令を下したのも自分であると強弁するので、他の隊員も同じことを主張するようにということまで決めていた。

 村田以下数名が、あの件については、口裏を合わせることを全員で話し合い、決めたので、隊長も同意してほしいと直に申し出た。

 直は、只ならぬ村田の様子から、もしかすると、上手くいかない場合は、自分の身代わりになるつもりではないかと思った。
 直は、しばらく身じろぎもせずに部下たちを見ていたが、

 「ありがとう・・よろしく頼む」

 と頭を下げたのだった。


 隊員たちは、直、いや、山崎一族が、敗戦を見越して10年以上も前から準備をしていたことを直から聞いた時、全員が眩暈(めまい)を覚えた。

 直は、国難が何かとは言わなかったが、彼らの任務は、直の指揮のもと日本の復興を陰から支え、(きた)るべき国難に備えることである。
 時には、危険な役目があることも、直は隠さなかった。

 日本へ帰還できても、何をすれば良いのか見当もつかなかった兵たちは、自分たちが、あの名高い山崎家の下で、祖国のために働けるのだと分かると、皆が、瞳に希望と生気を宿らせたのだった。

 山崎家の神がかった知略・軍略と信じられないような活躍は、枚挙にいとまが無く、直系子孫である直の言葉を、部下たちの中で、大言壮語と思う者など一人もいなかった。
 直の部下たちは、直の神がかりとも思えるような作戦と指揮を()の当たりにして戦い、生き延びたのだ。
 彼らにとって、また直とともに戦えるのだということが、何にも代えがたい救いを知らせる福音そのものと思えるのだった。

 これが、直以外の人間が同じことを言ったとしたら、誰もが大法螺か妄想としか思わなかったであろう。
 だが、この当時の人間は、平安末期に突如現れた山崎家が、一貫して朝廷を敬い、時には一族の命を賭して(みかど)を守り、戦国時代には、他に比べようも無い武力を持ちながら土佐一条家に仕え、朝廷と一条家に忠誠を尽くしたことを知らぬ者はいなかった。

■■■

 戦国時代、長曾我部を倒した一条家は、四国全土を実効支配し、治めた。
 それは、事実上の独立国家の様相を呈しており、従うのは朝廷の帝に対してだけであった。

 徳川幕府との交渉で、一条家は、土佐以外の地から手を引く代わりに、土佐を朝廷の御料地として認めさせ、以後土佐に手出ししないことを約束させた。

 山崎軍にどうしても勝てない幕府にとっても、体面を保つのに好都合であったので、両者の約定は成ったのだが、幕府は、この後も難癖を付けては、10回も土佐征伐を行い、悉く大敗したのだった。
 これは、山崎軍が強かったからであるが、四国の諸大名が全て、裏では一条家に味方したのも勝因のひとつだった。

 四国全土が、一条家の支配下にあった頃、四国は、活況を呈していた。
 一条家の財政基盤は、海外との貿易であり、山崎家が担当していた。
 これによって、一条家は、莫大な利益を上げていた。
 領民は、四国の全土において、その恩恵にあずかり、皆が余裕のある暮らしであったのだ。

 軍制においても、山崎家のそれは、京にあった頃から専業の兵士が担っており、特異なものであった。
 そのため、戦の度に家の働き手が、戦に取られると云う事も無かった。
 一条家が、四国を統一する前は、群雄割拠であったので、各地は戦乱の中にあり、民は、塗炭の苦しみに喘いでいたのだ。

 そのため、一条家が、土佐一国に引きこもることを聞いた民衆からは、絶叫のごとく反対の声が上がり、一条家と山崎家には、四国全土から合戦(かっせん)願いの文が届けられた。

 文の内容は、徳川と合戦をし、退けてほしい。
 そのためには、年貢や運上金が増えても構わない。
 我らを見捨てないでほしい、と云うものだった。

 これらの文を見て、この時の一条家当主、内政(ただまさ)は、徳川との和議を破棄し、合戦をすべきではないかと考えた。
 内政は、重臣たちに諮る前に、まず山崎家当主直興(なおおき)に自身の考えを述べた。

 この頃すでに、山崎家の評価は、天下に轟いており、
 「山崎の忠義、日の本一」「山崎に才無き者なし」「無敗の山崎」
 などと言われていた。

 長曾我部に滅ぼされかけた父、一条兼定を危機から救い、数々の調略にも全く動じず、一条家に変わらぬ忠節を尽くし、四国統一に多大な貢献をした山崎一族には、内政も絶大な信頼をおいていたのだ。

 内政の考えを聞いた直興は、暫く沈黙した後、内政にだけ聞こえる小声で、

 「私も、御所様のお考えは、至極もっともと存じます。しかし、徳川との和議が成った時、お指図があったのです・・」

 「なんと、それは真か・・して何と・・」

 「『和議を守れ』それだけでございます」

 「・・それだけか・・・」

 「以前、『いずれ徳川より和議の申し出がある。土佐の安寧に繋がるものであれば良し。されど、その後も度重なる幕府軍の遠征あり。戦支度を怠るな』
 とのお指図がありました。我らは、土佐以外の地を手放すは、口惜しい事なれど、お指図通りに従いました。此度は、それを改めて念押すものでございました」

 「だが、なぜであろう。武力は、我らがはるかに上回っていると思うのだが・・」

 「何度も遠征があれば、図らずも領民に多大な犠牲が出る場合もございます。土佐一国の守りに徹することが肝要とのご意志とも思われますが、そればかりとも思えません。ご真意がどこにあるのか、私にも(しか)とは分からないのです」

 「お指図は、守らねばならぬ。だが、徳川から封された大名に囲まれることになる。大丈夫であろうか」

 「それについては、常に周辺の大名との(よしみ)を通じ、周りを味方にするほかありません。一条家との婚姻を初め、飢饉の際の食糧援助、製塩技術の供与、幕府普請を命ぜられた大名への援助など、恩を売るには事欠きません。
 土佐を与えられる予定だった山内氏には、讃岐が与えられましたが、讃岐は、昔から水不足に悩まされた土地柄でありますので、用水などの灌漑や井戸の掘削などに助力するなど、いくらでも方法はあります。また、参勤交代など大名の藩財政を逼迫に追い込むのに好都合な決まりは、やがて武家諸法度で強いられることになりましょう。土佐は、独立国も同様なので参勤交代など必要ありません。
 また、領内の鉱山についても、幕府に取り上げられることもありません。
 さらに、各藩には禁じられている外国との交易も出来ます。それらの利の中からこれらの(つい)えを賄うことは容易でございます。そのうち、四国の諸藩は、土佐との商い無しには立ち行かないように致しましょう。周りが味方ばかりであれば、労せずして敵の動向を知ることも出来ましょう。
 また、我ら山崎一族が、土佐に下向します時、御所様もご存知のとおり、
 『一条家による四国統一後、土佐以外の殖産振興には力を入れるな』
 とのお指図がありました。あの時も、ご真意を図りかねたのでございますが、今日のことを見越しての、お指図であったのではないでしょうか」

 「うむ、確かに、そうであろう・・・」

 「御所様、これも形を変えた合戦でございます」

 「そうであるな。合戦であるな」


 指図をした者の真意は、後ひとつあった。

 『これ以上の

は、必要最小限に抑えなければいけない』

 というものであったが、現に、この時代を生きる人間には、理解できない事であり、指図書以外のことは記さなかったのである。

 もっとも、指図書や秘伝書と言われるものは、山崎家の秘事中の秘事であり、口外は、厳に禁じられており、これを知る者は、山崎本家とこれに繋がる(ごく)一部の者だけであるので、現在に至るまで、一般には全く知られていない。

 山崎家のことは、戦前は、忠義の家として教科書に載り、その活躍も数例の記載があり、巷間でも語りつがれていた。
 だが、戦後は、一条家が、徳川幕府に最後まで従わず、事実上独立を貫いたとのみ記載され、山崎家の記述は削除された。

 米軍は、戦前の思想を極端に嫌い、排除することに躍起だった。
 柔剣道が禁止され、昭和25、26年頃まで、「彦」という字さえ生まれてくる男子の名前に付けることが禁じられていた。
 「彦」という字は、皇室の男子に多く、神話にもあったからである。

 教科書や歴史書にも検閲の手が入り、勤皇や武士道の称賛に繋がる山崎家に関する記述は、人々の目に一切触れることがなくなり、やがて人々の記憶から消えていくことになった。

 現在では、山崎家と云えば、五菱グループを率いる山崎家だと云うのが多くの人々の認識であり、山崎本家について語り継がれているのは、土佐においてのみである。

■■■

 直は、「兵隊カフェ」の看板を暫く見上げていたが、視線を入り口に向けると、窺うようにゆっくりとドアを開け中に入った。

 薄暗い店内では、3名の客がコーヒーを飲んでいた。
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