第59話 闇の守護者~ゲリラ戦
文字数 2,831文字
待ち伏せをしていた敵軍と集落を、完全に壊滅させた掃討戦の後、直 の戦車隊は、戦車、自走砲、装甲車を放棄し、ゲリラ戦へと転換した。
戦車と自走砲の砲弾を全て使い切ってしまったのだ。
それに、日本軍本体からの補給は、完全に途絶えていた。
直たちは、戦車、自走砲、装甲車の操縦席を手榴弾で破壊すると、背嚢 に弾薬、食糧、医薬品など担げるだけ担いでベトナムの密林へと潜伏した。
残存兵力は、大尉の直と中尉が7名、少尉23名、兵100名であった。
直たちが密林に潜伏したのは、昭和20年2月であった。
この時から6か月間、彼らは、各地で米軍を悩ますことになった。
神出鬼没で勇猛果敢な直の部隊は、陸の神風特攻隊と米兵から恐れられた。
8月15日、直は、隊員全員に招集を掛けた。
本部に集まった隊員に直は、
「本日より、一切の戦闘行為を禁ずる」
と厳命した。
その日、敵機より大量のチラシが、ばら撒かれた。
チラシには、日本が、連合軍に無条件降伏したことが記されていた。
隊員たちは、敵の欺瞞 情報だと騒いだが、直は一言、
「本当だ。本日、陛下の玉音放送があったのだ」
これを聞いて、隊員は皆黙った。
異議を述べる者はいなかった。
やがて、全員が、忍び泣き嗚咽 をあげたのだった。
直の指揮と予見は神がかっており、間違ったことが無かったのだ。
それに誰もが、サイパン島の玉砕の時から、いずれ、この日が来ることが分かっていた。
現に、この日から米軍の攻撃は全く無くなった。
しかし、それから一年間、直たちは、投降せずに抵抗を続けた。
だが、終戦の日から一度も米兵を殺傷することは無かった。
もし、一人でも殺せば、米軍は、圧倒的な兵力で山狩りを始めるだろう。
もはや、各地で戦った日本軍は、どこにもいないのだ。
彼らは、直のゲリラ隊にだけ集中して攻めてくるのだ。
もし、そうなれば、直のゲリラ隊は、早晩全滅するだろう。
直たちは、米軍のキャンプを度々襲った。
忍び込むように潜入し、テントの中に入り、小銃を白人兵に突きつけるのだ。
「抵抗するな。抵抗すれば殺す。我々が欲しいのは食糧と医薬品だ。黙って渡せば危害は加えない」
直たちは、流暢 な英語で話しかけた。
陸軍中野学校の出身である将校は、全員が数ヶ国語を話せた。
特に、インドシナ各国の言葉と英語は流暢だった。
このことは、直たちが、戦後日本で活躍するために大いに役に立った。
米兵は、常に大人しく直たちの命令に従った。
米軍が、直の戦車隊やゲリラ隊と戦って勝ったのは、鈴木勘四郎の部隊を罠にはめ、挟み撃ちにした時だけだった。
どれだけ物資、兵員で優ろうとも完全に勝利することは出来なかったのだ。
直が指揮する部隊に対して、多くの戦死者を出させたのも、あの汚い作戦だけであった。
民間人を利用し、結果的にその民間人と、迎撃のために布陣していた戦車隊と村の守備に就いていた米兵まで、全員を死なせてしまったのだ。
これは、米軍の上層部でも問題となり、指揮責任者は、軍法会議にかけられ、懲戒処分がなされて不名誉除隊となった。
この指揮責任者は、戦闘の時、恐れをなして一人敵前逃亡したのではないかという疑惑が持たれたのだが、戦闘従事者は、この指揮官以外全員が死亡しており、立証することは出来なかった。
インドシナで戦っていた米兵は、誰もが、この指揮官を蛇蝎 のごとく憎み蔑 んだが、同時に直の戦車隊に強い恐怖と畏怖の念を抱いたのだった。
戦車戦でもゲリラ戦でも、直 隊の強さを知らぬ米兵はおらず、直たちに畏怖の念を持たない米兵もいなかった。
このため、どのキャンプ地を襲っても襲撃が成功しなかったことはなかった。
当時は、黒人差別がひどかった。
直たちが、白人兵にだけ銃を向け、黒人に向けなかったのは、スパイ活動の経験の中で白人と黒人の関係、両者の関係も影響している白人と黒人の気質の違いをよく理解していたからだった。
このような状況になった時、どの様な反応をするかも直はよく分かっていた。
黒人兵は、たとえ自分たちに銃が向けられていなくても、抵抗する素振りは全く見せなかった。
それどころか、食糧や医薬品の在処 を積極的に教えた。
直たちは、白人兵にも持っている食糧などを全て提出するよう要求した。
だが、彼らがそれに従って提出しても他に隠し持っている場合もあった。
そんなとき、黒人兵が、
「そいつは、まだ持っている! あそこだ!」
と、白人兵が隠し持っている食糧などを直たちに教えるのだった。
当時、いかに黒人が差別され、白人と黒人が、いがみ合っていたかということを表しているかのようだった。
直たちがテントを出る時は、
「しばらく他には知らせないでほしい。知らせれば許さない」
と、くぎを刺すのが常だった。
米兵たちは、ほぼこの要請どおり他に知らせるのを遅らせた。
中には、すぐに上官に報告しようとした白人兵もいたが、そんなときは黒人兵が、その白人兵に銃を向け、
「俺たちは、まだ死にたくない。報告は後にしてくれ」
と言い、白人兵もそれに従うのだった。
直たちのそのような生活は一年ほど続いた。
ある日、直は部下を集合させ、
「これが最後の命令である。これから投降する」
と命令した。
直が、投降を決意したのは、隊員の病死であった。
隊長である直と7人の中尉は、皆壮健であったが、ゲリラ戦に転換した時、23名いた少尉は、2名病死し、21名になっていた。
100名いた兵は、10名死亡し、90名になっていた。
ゲリラ戦に転換して終戦までの半年の間、戦闘の中にあったにも関わらず、死亡した者は、一人もいなかった。
ところが、終戦からわずか一年の間に12名が病死したのだ。
これは、やはり多いと感じざるを得なかった。
亡くなった者たちは、敗戦という事実と、これからの行く末に希望が持てず、生きる張りを失くしたのであった。
直は、隊員全員と面接を行った後、最も近い米軍基地へ白旗を掲げ、整然と行進をした。
途中、慌てて駆けつけて来た米軍のパトロール隊と対峙したが、直は、隊員を代表して姓名と階級を名乗り、降伏する旨を駆けつけたパトロール隊の隊長に告げ、降伏の証として、軍刀と小銃を捧げ持って隊長に渡そうとした。
だが、隊長は、
「それには及びません。自分が司令部までご案内します。榊大尉殿」
と応じたのだった。
武装解除もしていない、最近まで敵だった直たちの100名を超す部隊を背にして、前を進むこのパトロール隊の隊長は、恐怖や不安を全く感じるどころか、誇らしげな顔をしていた。
白旗を掲げ、降伏の意思を示した直たちが、不意打ちをするなどと云うことは全く考えられなかった。
それほど、当時の米兵たちは、畏怖だけでなく尊敬の念さえ、直たちに持っていたのだ。
半年後、昭和22年の2月、直の帰還を最後に、隊員たちは、全員無事に日本へ帰還したのだった。
戦車と自走砲の砲弾を全て使い切ってしまったのだ。
それに、日本軍本体からの補給は、完全に途絶えていた。
直たちは、戦車、自走砲、装甲車の操縦席を手榴弾で破壊すると、
残存兵力は、大尉の直と中尉が7名、少尉23名、兵100名であった。
直たちが密林に潜伏したのは、昭和20年2月であった。
この時から6か月間、彼らは、各地で米軍を悩ますことになった。
神出鬼没で勇猛果敢な直の部隊は、陸の神風特攻隊と米兵から恐れられた。
8月15日、直は、隊員全員に招集を掛けた。
本部に集まった隊員に直は、
「本日より、一切の戦闘行為を禁ずる」
と厳命した。
その日、敵機より大量のチラシが、ばら撒かれた。
チラシには、日本が、連合軍に無条件降伏したことが記されていた。
隊員たちは、敵の
「本当だ。本日、陛下の玉音放送があったのだ」
これを聞いて、隊員は皆黙った。
異議を述べる者はいなかった。
やがて、全員が、忍び泣き
直の指揮と予見は神がかっており、間違ったことが無かったのだ。
それに誰もが、サイパン島の玉砕の時から、いずれ、この日が来ることが分かっていた。
現に、この日から米軍の攻撃は全く無くなった。
しかし、それから一年間、直たちは、投降せずに抵抗を続けた。
だが、終戦の日から一度も米兵を殺傷することは無かった。
もし、一人でも殺せば、米軍は、圧倒的な兵力で山狩りを始めるだろう。
もはや、各地で戦った日本軍は、どこにもいないのだ。
彼らは、直のゲリラ隊にだけ集中して攻めてくるのだ。
もし、そうなれば、直のゲリラ隊は、早晩全滅するだろう。
直たちは、米軍のキャンプを度々襲った。
忍び込むように潜入し、テントの中に入り、小銃を白人兵に突きつけるのだ。
「抵抗するな。抵抗すれば殺す。我々が欲しいのは食糧と医薬品だ。黙って渡せば危害は加えない」
直たちは、
陸軍中野学校の出身である将校は、全員が数ヶ国語を話せた。
特に、インドシナ各国の言葉と英語は流暢だった。
このことは、直たちが、戦後日本で活躍するために大いに役に立った。
米兵は、常に大人しく直たちの命令に従った。
米軍が、直の戦車隊やゲリラ隊と戦って勝ったのは、鈴木勘四郎の部隊を罠にはめ、挟み撃ちにした時だけだった。
どれだけ物資、兵員で優ろうとも完全に勝利することは出来なかったのだ。
直が指揮する部隊に対して、多くの戦死者を出させたのも、あの汚い作戦だけであった。
民間人を利用し、結果的にその民間人と、迎撃のために布陣していた戦車隊と村の守備に就いていた米兵まで、全員を死なせてしまったのだ。
これは、米軍の上層部でも問題となり、指揮責任者は、軍法会議にかけられ、懲戒処分がなされて不名誉除隊となった。
この指揮責任者は、戦闘の時、恐れをなして一人敵前逃亡したのではないかという疑惑が持たれたのだが、戦闘従事者は、この指揮官以外全員が死亡しており、立証することは出来なかった。
インドシナで戦っていた米兵は、誰もが、この指揮官を
戦車戦でもゲリラ戦でも、
このため、どのキャンプ地を襲っても襲撃が成功しなかったことはなかった。
当時は、黒人差別がひどかった。
直たちが、白人兵にだけ銃を向け、黒人に向けなかったのは、スパイ活動の経験の中で白人と黒人の関係、両者の関係も影響している白人と黒人の気質の違いをよく理解していたからだった。
このような状況になった時、どの様な反応をするかも直はよく分かっていた。
黒人兵は、たとえ自分たちに銃が向けられていなくても、抵抗する素振りは全く見せなかった。
それどころか、食糧や医薬品の
直たちは、白人兵にも持っている食糧などを全て提出するよう要求した。
だが、彼らがそれに従って提出しても他に隠し持っている場合もあった。
そんなとき、黒人兵が、
「そいつは、まだ持っている! あそこだ!」
と、白人兵が隠し持っている食糧などを直たちに教えるのだった。
当時、いかに黒人が差別され、白人と黒人が、いがみ合っていたかということを表しているかのようだった。
直たちがテントを出る時は、
「しばらく他には知らせないでほしい。知らせれば許さない」
と、くぎを刺すのが常だった。
米兵たちは、ほぼこの要請どおり他に知らせるのを遅らせた。
中には、すぐに上官に報告しようとした白人兵もいたが、そんなときは黒人兵が、その白人兵に銃を向け、
「俺たちは、まだ死にたくない。報告は後にしてくれ」
と言い、白人兵もそれに従うのだった。
直たちのそのような生活は一年ほど続いた。
ある日、直は部下を集合させ、
「これが最後の命令である。これから投降する」
と命令した。
直が、投降を決意したのは、隊員の病死であった。
隊長である直と7人の中尉は、皆壮健であったが、ゲリラ戦に転換した時、23名いた少尉は、2名病死し、21名になっていた。
100名いた兵は、10名死亡し、90名になっていた。
ゲリラ戦に転換して終戦までの半年の間、戦闘の中にあったにも関わらず、死亡した者は、一人もいなかった。
ところが、終戦からわずか一年の間に12名が病死したのだ。
これは、やはり多いと感じざるを得なかった。
亡くなった者たちは、敗戦という事実と、これからの行く末に希望が持てず、生きる張りを失くしたのであった。
直は、隊員全員と面接を行った後、最も近い米軍基地へ白旗を掲げ、整然と行進をした。
途中、慌てて駆けつけて来た米軍のパトロール隊と対峙したが、直は、隊員を代表して姓名と階級を名乗り、降伏する旨を駆けつけたパトロール隊の隊長に告げ、降伏の証として、軍刀と小銃を捧げ持って隊長に渡そうとした。
だが、隊長は、
「それには及びません。自分が司令部までご案内します。榊大尉殿」
と応じたのだった。
武装解除もしていない、最近まで敵だった直たちの100名を超す部隊を背にして、前を進むこのパトロール隊の隊長は、恐怖や不安を全く感じるどころか、誇らしげな顔をしていた。
白旗を掲げ、降伏の意思を示した直たちが、不意打ちをするなどと云うことは全く考えられなかった。
それほど、当時の米兵たちは、畏怖だけでなく尊敬の念さえ、直たちに持っていたのだ。
半年後、昭和22年の2月、直の帰還を最後に、隊員たちは、全員無事に日本へ帰還したのだった。