第86話  弥一郎の想い人~祇園 絢乃

文字数 1,938文字

 2019年の年末、弥一郎は、五菱商事国内商事部門本部ビルの受付にいる皆藤明子という女性は、自分の娘だと拓馬に告げた。
 
 弥一郎が、明子の母親となる女性に会ったのは、今から23年ほど前、弥一郎が帝都工業大学を卒業して、五菱商事に入社したばかりの頃で22才の時だった。

----1996年(平成8年)4月----

 弥一郎は、大学を卒業した後、五菱商事に就職し、京都支店に配属された。
 当時の社長は、末延道夫で、五菱財閥四天王の一人、末延道成の直系子孫であった。
 弥一郎は、大学入学と同時に五菱評定に参加していたが、末延は、弥一郎の教育係を買って出て企業人としての心構えを弥一郎に教え込んだのだった。

 4月の京の花街、祇園甲部は、都をどりの開催期間中であり、心做し華やいだ雰囲気が街を覆っていた。
 この日、五菱商事社長の末延道夫は、京都出張の合間を縫って、弥一郎を茶屋(料亭)での芸者遊びに誘ったのだった。
 
 お座敷には、三味線や唄いを担当する地方(じかた)と呼ばれる芸妓、小鼓や笛の鳴り物を奏でる舞妓、それに立方(たちかた)と呼ばれる舞踊を主にする芸妓が呼ばれ、弥一郎は、初めて観る(あで)やかな芸妓たちのお囃子や踊りに見入っていた。
 弥一郎は、その立方の芸妓たちの中の一人から目が離せなかった。

 その芸妓の名は、絢乃(あやの)と言った。
 彼女の本名は、皆藤三和子(みわこ)と言い、祇園甲部の老舗置屋「丸の家」の女主人皆藤邦子の三女であった。

 「丸の家」は、江戸初期祇園の始まりである寛永年間(1624~1644)から続く、老舗の置屋である。
 元は、公家の出であるとも言われている。
 皆藤家は、稼業が置屋と言う事もあり、女系家族であった。
 婿養子をもらうことはあるが、代々、実質的な家長は、女であった。
 また、歴代の女主人は、いずれもが名を馳せた芸妓であり、祇園で遊ぶ旦那衆は、お座敷遊びなら丸の家の芸妓を呼んでこその(つう)と言わしめてきたのだった。

 三和子の母、邦子も芸名を絢嘉(あやか)と言い、細面の美人であり、地方、立方ともに(こな)す芸達者であった。
 邦子は、三女を儲け、上から一美、二美子、三和子と名付けた。
 長女、次女ともに花柳界にはさほど興味が無く、芸者の道には進まず、適齢期になるとそれぞれ一般男性と結婚し、丸の家を出て行ったのだった。
 
 残ったのは、三和子だけだが、彼女は、幼い頃から将来は芸妓になると心に決めていた。
 高校を卒業して、実家の丸の家で芸妓のお世話をする仕込みさんになり、芸者への道を進み始めたのだった。
 
 仕込みさんから始まり、舞妓になり、一本と言われる自前の芸妓になるまでには、4~6年かかると言われているが、三和子は、わずか2年で芸妓となった。
 
 京言葉は勿論の事、つらい仕込みさんの仕事にも全く音を上げることもなく、花街の仕来たりにも子どもの頃から馴染んでいたため、花街での生活は、三和子にとって息をするように自然なことであった。
 そればかりか、全ての芸事に非凡な才能を見せ、芸妓の見習いと言うべき舞妓の頃からお座敷での立ち居振る舞い、お客である旦那衆との当意即妙の会話などで座敷を盛り上げるなどお姉さん芸妓たちをうならせたものだった。
 それでいて、お姉さん芸妓たちを立てることを忘れない気配り心配りも十分で、先輩後輩を問わず、芸者仲間たちからも人気の的であった。

 芸妓になって一年後、絢乃は、結婚した。
 相手は、京の老舗菓子舗の主人であった。
 だが、結婚はしたものの入籍はしないうちにその主人は癌で他界したのだった。
 
 三和子は、当初から内縁でも構わないと思っていた。
 皆藤家では、生まれてくる子は、ほぼ全てと言って良いくらい女児であった。
 だから、老舗の跡継ぎとなる男児が産まれないと云う事が十分考えられるので、相手に申し訳ないと云う気持ちもあったのだ。
 そのため、男児が出来るまで入籍を待ってくれと相手には頼んでいた。
 
 結果、結婚して二年経っても子どもには恵まれなかった。
 それでも構わないから入籍してほしいと主人に言われ、三和子も入籍することにしたのだが、その矢先に主人が発病し、呆気なく亡くなったのだった。

 三和子は、実家の丸の家に戻り、絢乃として芸妓に復帰した。
 それから二年が経ち、25才となった絢乃は、大学を卒業したばかりの山崎弥一郎と出会うことになったのだった。

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 更新が遅れて申し訳ありません。
 母が、終活を始め、その手伝いに掛かり切りでした。
 手伝いは、まだしばらく続きますが、合間を見ては更新したいと思っています。
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