第47話  森山秀二

文字数 8,858文字

 「あー、こげん暑かちゃ思わんやったー。関東も九州といっちょん(全然)変わらんとたいね。クーラーの無からな生活出来んばい! ほんなこつ(本当に)

 森山秀二の独り言は、次第に早く大きくなる。

 彼は、九州の出身だ。
 18才の時、都内の6年制薬科大学に入学するため、初めて上京し、大学の寮に住んでいた。
 卒業と同時に竹田製薬工業に就職した後は、会社がある笠間小美市に住んでいる。

 大学在学中、在学生の出身地は、日本各地に広がっており、色んな方言が飛び交っていた。
 だが、九州出身者ならまだしも、それ以外の地方の学生と話すときは、標準語で話すしかなかった。
 まだ知らない人にため口で話すわけにもいかず、いつでも誰にでも丁寧な標準語で話すうち、丁寧な標準語しか話せなくなっていた。
 友人にため口の標準語で話そうとしても、芝居のセリフを棒読みしているようになってしまうのだ。
 それと、咄嗟(とっさ)のときや興奮したとき、怒ったときは、どうしても標準語が出ない。
 九州弁になってしまうのだ。
 だから、彼の友人たちにとって、彼が九州弁で怒っているときは、本当に怒っているのだと、怒りを(はか)るバロメーターになっていた。

 彼が、竹田製薬工業を志望したのは、中学生の頃、「隠密浪人」という一世を風靡したテレビ時代劇が切っ掛けだった。
 そのテレビ時代劇のスポンサーが、竹田製薬工業だったのだ。
 幕府の隠密で剣の達人である主人公が、部下の忍者と共に悪を成敗して諸国を旅する物語で、中二病真っ盛りの秀二は、毎週土曜日の夜7時から始まるこの痛快時代劇テレビドラマを欠かしたことが無かった。
 ドラマが終わると、竹田製薬工業の本社屋が空から映し出され、屋上のタケダと書かれた大きな広告塔の周りを回りながら、『 タケダ タケダ ターケーダー♪ 』という社名を繰り返すだけの歌が流れていた。
 秀二は、その映像を()ながら一緒に歌っていたのであるが、そのうち、この会社はどんな会社なんだろう?、と思うようになり、終にはそれが嵩じて、将来は竹田製薬工業に入りたいと思うようになった。
 どういう理由からそう思うようになったのか、全く判然とせず、幼稚としか言いようが無いのだが、彼は、薬科大学へ進み、念願の竹田製薬工業に晴れて入社したのだった。

 もっとも、さすがにこんな理由では、就職は難しいだろうと思い、面接では無難な回答をしたのであるが。
 このことは、妻の洋子以外に話したことは無い。

 秀二は、普段慣れない標準語を話しているので、周りに誰もいないと九州弁で独り言を言ってしまう。
 彼は、研究開発職として第4分野に配属されたが、研究に行き詰ったり、一人で考え込むときも、つい九州弁で独り言を言ってしまうのだった。

 いつものように研究に行き詰って独り言を言っていると、突然後ろから、

 「どげんしたとね?」

 「はぁ??、はっ、はい?」

 「研究に行き詰まとっとやろ?」

 そこに立っていたのは、彼が配属になった第4分野統括の井上修一だった。


 井上修一は、この人一倍研究熱心な森山のことは、入社した時から気にかけていた。
 それで、彼が何か夢中になると、九州弁で独り言を言うのに気が付き、九州弁で声をかけてみたのだ。
 森山秀二は、しどろもどろになりながらも行き詰っている事について話し、井上も様々な助言を行ったのだった。
 この時以来、井上は気さくに森山に話しかけるようになった。
 井上は、誰にでも気さくに話しかけるので、誰も気にかけなかったが、井上は最初から予感めいたものを感じていた。
 何度か森山と話すうちに、それは確信となった。

 まず、彼はどの派閥にも属していない。
 何故だかは分からないが、この会社が本当に好きなのだと云うこと。
 彼は、初代長衛(ながえ)社長から智之社長に至る経営理念に、心底賛同しており、良い薬を作って世の中の役に立ちたいという気持ちが本物であること。
 それだけではない。
 年齢、人柄、容姿は、きっと智之社長の一人娘である洋子ちゃんのタイプに違いないと井上は思った。

 これらのことが、井上がずっと探していた人材に当てはまるのだ。
 もし、井上の予感が正しければ、竹田製薬工業は、うってつけの後継者を得ることが出来るのである。
 井上は、さり()無く計画を実行に移した。

 「森山君、済まないが、この資料を至急社長の自宅まで届けてくれないか」

 こうして、森山は井上の意図など知らず、智之の自宅へ時々資料を届けるようになった。
 いつも、応接間でしばらく待った後、智之が部屋に入ってくるのが常であった。
 この日は、普段以上に待ち時間があり、手持無沙汰の森山は庭を見ようとして、少し窓を開けたのだが、むっとした夏の暑気が部屋に入って来たので、慌てて窓を閉めながら冒頭の独り言になったのである。

 でも、これを少し開けたドアからじっと見ている女性がいた。
 智之の一人娘の洋子だ。
 先ほどの独り言は、洋子には、

 「ああこげんあつかちゃおもわんやったー かんとうもきゅうしゅうもいっちょんかわらんとたいね くーらーのなからなせいかつできんばい ほんなこつ」

 と、聞こえている。
 九州弁は、洋子にとって言葉だけでなく抑揚やアクセントも異なるので、当初は殆どと言っていいほど意味が分からなかった。
 今は、一つ一つの発音を以前より認識できるようになり、意味も半分ぐらいは分かるようになった。

 洋子は、にこにこしながらドアをノックした。
 「あっ、はいどうぞ」
 「お待たせしてすみません。お茶のお代わりをお持ちいたしました」
 智之が入って来るまで、若い二人のいつもの弾んだ会話が続いた。

 智之は、井上から森山という青年に書類を持たせるから会ってほしい、と言われた時、きっと何かあるなと思っていたが、会ってみると井上がわざわざ寄こす理由がすぐに分かった。

 ---- 智之の視点 ----

 この青年は、私や父、それに祖父と同類だ。
 何も違和感が無く、一緒にいると懐かしささえ感じる。
 洋子も一目惚れのようだ。
 最初に彼が自宅へ来た日、私は電話で他の用件を話していたので、洋子にお茶を持たせたのだが、彼が帰ってから色々と彼のことを聞かれた。
 母親にも話したそうだ。
 妻からその報告を受けた時、私も妻もこんなことは初めてだと云うのが共通の思いだった。
 私は、さらに彼の詳しいことが知りたくて、井上さんに電話した。
 私が電話すると、彼は待っていましたとばかりに森山君の説明を始めた。
 要するに井上さんが言うには、人柄、人物、仕事に対する姿勢共に申し分ない、実家は長兄が継いでいる、養子に貰うにはこれほどの人間はいない。
 きっと、あなたを献身的に支えてくれるに違いない。
 それに、何と言っても洋子ちゃんが、一目惚れするはずだ。と云うものだった。
 父親の自分より娘のことを理解していることがショックだったが、洋子の気持ちは、その通りだった。
 井上さんの言うことは、間違ったことが無い。
 何としても、森山君が洋子の婿になってほしいものだ。


 ---- 森山秀二の視点 ----

 おい()は、最初、井上統括から社長の家に資料ば持って行ってくれち言われた時は、なんでそげなめんどくさかこつばち(そんな面倒くさい事をと)思うたばってん、来てよかったぁ。
 こげな別嬪(べっぴん)さんが、おらっしゃるやら思いもせんやった。
 初めてお会いした時は、びっくりしたばい。
 社長のお嬢さんは21才で、去年短大ば卒業したちいうこつやけ(という事だから)、おいと三つ違いたいね。
 大会社のお嬢さんやけ、就職はせんで花嫁修業ち言ござったばってん、どげなとこに嫁に行かっしゃるとやろか。
 やっぱり大きか会社やろね。
 おいには高嶺の花ばってん、こげんして時々会ゆるだけでちゃ嬉しかぁー(^^♪
 ・・そいにしたっちゃ、今日は、社長は遅かね・・・

 「やあ、待たせてすまなかったね」

 「いえ、先ほど来たばかりです。それに洋子お嬢さんにお相手していただいたので、時間もあっと言う間でした」

 洋子お嬢さんは、部屋を出て行った。

 (よし、これから仕事の話たいね)

 「森山君、資料は後でゆっくり見させてもらうよ。君に折り入って話があるんだが・・」

 「は? あ、はい・・」

 それからの社長の話は、俺には全く思いもかけないことで、ただ驚愕した。

 俺を洋子の婿に欲しい。
 会社は、過去の合併による負の影響が残っている。
 自分は、この問題を解決して会社を立て直したい。
 これから、自分と力を合わせて、やっていってはくれまいか。
 との話だったのだ。

 「社長、社長の力になるのは当たり前です。自分は、会社のため、社長のために全力を尽くす覚悟です。でも、洋子お嬢さんのことは、ちょっと待ってください。洋子さんは、この話をご存知なのですか」

 「もちろん、本人の了解済みだよ」

 「・・それでも、待っていただけませんか。私は、直接、お嬢さんに確かめたいのです」

 「そうか、分かった。娘は、いつでもいいと思うよ」

 「ありがとうございます」

 社長は、部屋を出て行き、その後、洋子お嬢さんが入って来た。
 俺は、緊張しながら、次の日曜日に会ってほしいとお願いした。

 約束の日、俺たちは、駅の前にある噴水の所で待ち合わせをして、バスに乗って海に行った。
 単純に洋子さんの名前から太平洋に行っただけで、何のひねりもサプライズも考え付かなかった。

 海は8月も下旬だったが、暑かったからだろう、二組の家族が小さな子どもを連れて遊びに来ていた。
 子どもたちが、波打ち際を元気に走って、はしゃいだ声を上げているのを聞いていると、なんだか幸せな気持ちになった。
 割と大きな流木があったので、俺と洋子さんは、その上に腰かけて、取り留めも無いことを話していた。
 だが、このままでは(らち)が明かないと思い、本題に入った。

 「洋子さんのお父さんからお話をいただきました。僕に全く異存はありません。でも、こういう話は、僕から直接洋子さんに申し込みたいのです。初めて会った時から洋子さんが好きでした。僕と結婚してください」

 のどがカラカラだった。緊張で声がかすれてしまった。

 「はい、よかよ・・」
 「洋子さん・・」
 「喜んでお受けします。秀二さんありがとう、嬉しかぁー(^^♪ 」

 俺は、洋子さんの手を取って何度も飛び跳ねた。
 おかげで靴の中に砂が入ったが、それさえ楽しかった。

 翌週の日曜日に二人で宝石店に行って、婚約指輪と結婚指輪を選んだ。
 婚約指輪は、彼女の誕生石のアクアマリンにした。
 アクアマリンの透き通るような水色は、彼女にとてもよく似合っていた。
 名前が、洋子、結婚の申し込みが太平洋の砂浜、婚約指輪はアクアマリンで、思いがけず海繋がりで三拍子揃った。
 それから、リングを指の大きさに合わせた。
 この日の宝石選びは、二人の初の共同作業のようだなと思った。
 結婚指輪には、結婚の日取りが決まったら、日付も入れてくれるとのことだった。

 それから二人でレストランに行き、彼女に改めて婚約指輪を渡した。
 ついでに結婚指輪も彼女に預かってもらった。
 結婚式は、神前で行うので、結婚指輪は披露宴で交換することにした。

 翌年、井上統括の仲人で結婚した。
 だが、俺たちが結婚したその翌年、井上統括は亡くなった。
 義父は、会社ではいつもと変わらなかったが、家でのあの時の義父の悲しみと落胆振りは見ていられないほどだった。

 さらに一年後、俺は27才で社長室長に任命された。
 本音を言えば、研究開発部門に残りたかったのだが、そんな状況ではないことは俺でも理解していた。
 聞くところによると、義父は22才で入社した時から社長室長に任命され、社長としての帝王学を学んだそうだ。
 俺も義父と同じようなコースをたどり、10年後には副社長となったが、副社長となって直ぐに、会社は解散することになった。

 竹田製薬工業は、新生薬品という五菱商事を中心とする五菱グループが100%出資する会社に技術や特許と云った知的財産、施設設備、将来の債権も含めて一切を売り渡して解散した。
 清算には義父が当たり、一年を要した。

 俺は、その間、暫定的に新生薬品の社長代行を務めた。
 竹田製薬工業の解散に伴い、多くの社員が解雇されたが、生え抜きの社長派を中心として新生薬品に新規雇用され、新生薬品の実質的な中核として働くことになったのだ。
 新生薬品の社長は、五菱商事の荘田副社長が兼任していたが、俺が社長代行として実務を()ることになったのだ。

 社長代行としてのあの一年は、何と言ったらいいのだろう。
 今でも、夢に出てくるほどだ。
 毎日毎日、よく正気で乗り越えられたものだと思う。
 五菱の社員の方々のアドバイスや助力が無ければ、最初からお手上げだった。
 それに、竹田製薬工業にも心強い味方がいた。
 近藤統括をリーダーとする武闘派の連中だった。

 竹田製薬工業が解散を決定する10年前から、会社を立て直すために五菱と力を合わせて、再生プロジェクトの活動がなされていたことを知った時は本当に驚いた。
 特に高田裕次君と里帆ちゃんの八面六臂の活躍には、感心するというより頭が下がる。
 こういう人たちが会社にいると云う事がどんなに有り難いことかつくづく思う。

 新生竹田製薬工業になって15年が経った時、ようやく10年来の懸案事項とも言うべき東京メディシンの問題が片付いた。
 義父は、それを機に引退し、俺が後を継ぐことになった。

 俺は結婚した時、竹田の婿養子になるものと思っていたが、義父は特にこだわりが無く、洋子は嫁に来てくれた。
 子どもは、二男二女の四人に恵まれた。

 俺は、長男の長衛を義父の養子にし、竹田の家を継がせることにした。
 長衛という名は、義父の祖父で、旧竹田製薬工業の初代社長の名だ。
 長衛は、子どもの頃から、薬品の分子構造の模型の前で説明をするほどだった。
 これには、義父も「俺もこれほどでは無かった」と呆れていた。

 長衛は、竹田と俺の両方の血を色濃く受け継いでいるのだろう。
 だが、そのことが義父も俺も逆に心配だった。
 俺にも竹田にも経営の才は無い。
 必要なのは、経営の才がある部下だ。
 俺たちは、後顧の憂いなく研究開発に没頭できることが、最も世の中に貢献できるのだ。
 竹田家が会社の経営をすることには、あまり重きを置いていない。
 これは、俺も義父も共通に持っていた考えだ。
 (義父は3年前、95才で天寿を全うした。)

 経営の実務は、信頼できる人に任せたい。
 その点、五菱は人材の宝庫だ。
 新生竹田製薬工業は五菱商事の子会社だ。
 株の51%を五菱商事が持ち、他は五菱グループの各企業が持っている。
 つまり100%五菱の傘下である。
 だが、五菱は最初から100%を主張した訳では無い。
 五菱の持ち分は、半分か3分の1でも良いとのことだったのだが、義父は全部を五菱で持ってくれと頼んだのだ。
 俺が社長になった時も、俺の意向を聞いてきたので、義父と同じように答えた。

 あれから20年経った。
 長衛に社長を譲ることになったが、やはり長衛も五菱の100%傘下を願った。
 「五菱の傘下であるから、安心して薬の開発に取り組めるのだ。それ以上に大事なことは無い。」
 義父も俺も口を酸っぱくして長衛に言った言葉だ。
 長衛も俺たちの考えを十分理解しているようで安心した。

 ところで、長衛は、五菱評定の番頭として正式に迎え入れられた。
 実は、義父にも俺にも五菱評定に参加の打診があったのだが、竹田製薬工業を破綻にまで導いてしまった義父や俺に、そんな資格があるなど全く考えられなかったので固辞をした。
 今回は、弥一郎代表の強い要望があり、これ以上の固辞が出来なかったのだが、当の長衛は、あまり昔のことは意に介していないようだ。
 これが時の流れというものだろう。
 だが、何度も言うが、昔のことを教訓として忘れてほしくないと今更ながら思う。

 長衛が47才の時、社長を譲ったのだが、あのとき俺はまだ早いかもしれないと思い、五菱商事の吉岡孝太郎社長に伺いを立てた。
 吉岡社長からは、
 「五菱は、森山社長の決定に異議はない。」
 と云ういつもの回答だった。
 その時、
 「あなたの功績に五菱として感謝しています。⦅森山社長に感謝し送る会⦆を催したい。」
 とも言われたのだが、社交辞令だろうと受け取っていた。
 ところが、実際に盛大な会が催されたのだ。
 発起人に吉岡孝太郎五菱商事社長をはじめ、弥一郎五菱代表や五菱評定の番頭の方々が名を連ねているのを見て、妻の洋子は嬉し泣きに泣いてくれた。
 俺は涙をこらえたが、本当は泣きたいほどだった。

 送る会には、弥一郎代表の後継者である龍馬氏も来ていた。
 龍馬氏は、若干29才なのだが、その資質、器量は祖父の故弥太郎氏を凌ぐのではないかと謂われるほどの人物だ。
 ありがたいことに龍馬氏は、長衛や長衛の長男で今年成人になった洋人とも仲が良く、この頃は三人でよく飲みに行ったりしているほどだ。

 この龍馬氏は、小学生の時、トラックに撥ねられそうになったのを山科拓馬氏に身を呈して助けられたことがあった。
 それ以来、山科氏は龍馬氏にとって命の恩人と云うだけではなく英雄であり、師でもあるのだ。
 それも一方的に龍馬氏が恋焦がれていると言っても過言ではない。
 龍馬氏は、会う人毎に「俺は拓馬お兄ちゃんの一番弟子だ」と言って廻っている。
 やがて弥一郎代表の後継者であると云うのは誰もが認めているのであるが、こと山科拓馬氏のことになるとこの調子なので、父親の弥一郎氏も苦笑するしかないようだ。

 その龍馬氏も俺に挨拶に来てくれたのだが、その後は、そわそわとして落ち着かない。しきりにドアのところを気にしている。
 これが意味するのは一つだ。
 あの山科拓馬氏がこの会場に来るかもしれない。
 そう思うと俺まで落ち着かなくなる。

 20年前、初めて会ったあの青年が、今では日本中誰も知らない者がいないとさえ謂われるあの山科拓馬氏だ。
 48才の彼は見た目はどう見ても30前にしか見えない。
 山崎家の人々も皆異常に若いが、山科氏はそれに輪をかけている。
 優秀な人というのは、皆若いのだろうか。

 山科氏に対しては、今や世界中が氏を味方にしようと動いているが、氏は神出鬼没、東奔西走の忙しさで会うのはとても難しい。
 ところがその山科氏は、五菱に対してだけは特別の便宜を図ってくれるのだが、それも当然と言える。
 山科氏は山科グループの総裁であり、なんと五菱グループはその傘下にあるんだ。
 全くもって今でも信じられない。

 世人は氏の信じられないほど高い経営能力ばかりに注目するが、俺が、氏の最も抜きんでているところは⦅人⦆だと思う。
 山科氏の(もと)には人材の宝庫と言っても良いほど優秀な人材が揃っているのだ。
 山科氏は、積極的に人材を確保してきた。
 世に隠れた人材から、他の企業の人材の引き抜きまで様々だが、引き抜きでも、それが問題になったことは一度も無い。
 さらに、「氏は人材を育てる神様だ」とは高田里帆人事担当取締役の言葉だが、全く同感だ。
 それは、もはや羨ましいとか言えるレベルではないのだ。

 世間からこんなに注目されているにも関わらず、山科氏本人は一向に気にした風でもない。
 住まいも、ついこの(あいだ)まで昔から住んでいるアパートだった。
 収入にも一切執着がないようで、地位が下の人が迷惑しないようにとだけ配慮されているようだ。
 例えば、氏が社長で副社長の給料が3,000万円なら氏は3,100万円といった具合だ。
 もっとも、住まいについては、所轄の警察や国の公安から「警備上問題があるので何卒配慮してほしい」との懇願があり、敷地500坪の現在の屋敷になったのだそうだ。
 ところが、警備の警察官が詰める建物の方が、氏の住まいより大きくて、初めての来訪者は皆、警察官詰め所に間違えて行くそうだ。

 警察の警備については、何も氏が依頼したのではなく国の判断とのことだが、氏は、恐縮して警察官の人件費以外の経費については、警察官詰め所の建設費から光熱水費などの施設の維持管理費や備品代だけでなく警備中の食事代に至るまで氏が全額負担しているそうだ。

 思うのだが、旧竹田製薬工業の敵対派閥のように金や地位に執着し、目が眩んで破滅する者もいるのに、山科氏のように無私無欲な人が驚くべき功績と名誉や人望を得るという対比につくづく思うのは俺だけではないはずだ。
 人間としての理想の形を見てしまう。
 龍馬氏が傾倒し、心酔するのも当然だ。

 高田里帆人事担当取締役が、20年前東京メディシンに出向して氏に師事したいと言っていた意味が、今ならよく分かる。
 内心、俺だって若かったら氏の下で鍛え直したかった。
 そうすれば、もう少しは義父の役に立てたのではないかとさえ思うのだ。

 俺は、今は73才だ。洋子は70才になった。
 二人とも外見内面ともに年相応に年齢を重ねたと思う。
 山崎家や山科家とは違い、普通の人間という証なのだろう。
 しかし、これでいい。
 若い時、井上統括のご配慮が今の俺と幸せな家庭に繋がった。
 会社も順調だ。
 なにより、五菱や山科グループのアドバイスがいつでも受けられるというだけで、これ以上の安心材料があるだろうか。
 若い頃、義父と一緒に毎日必死に(おぼ)れないように頑張っていたのが夢のようだ。


 そう云えば俺の名前についてだが、俺はいつも竹田社長の娘婿としか記憶されなかった。
 名前も下の秀二を一度で憶えてくれる人は稀だったが、山崎弥一郎氏、山科拓馬氏、それに今はもう亡くなった山崎弥太郎氏は、最初から俺の名前を憶えていてくれた。
 これもいい思い出だ。

 孫の中で最も年長な洋人は、後数年すれば結婚するだろう。
 もしかすると、ひ孫の顔が見られるかもしれない。
 今は、これが俺と妻の一番の楽しみだ。
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