第48話 東京メディシン
文字数 2,348文字
智之は、自分が情けなかった。
末田薬品を買収して10年が経っていた。
結局、自分の甘さが原因で、未だに社長を辞めるに辞められないのだ。
東京メディシンに送った二人は、曲者 だった。
二人を監視するために、3名の社外取締役を派遣した。
部長以上の人事権は、取り上げた。
だが、この二人は会社の実権を握り、会社を思うように経営するようになった。
この10年間、会社の収益はさほど下がってはいない。
しかし、それは毎年の賃金カット、退職者の不補充による人件費の減少、さらに営業の縮小に伴うリストラによるもので、営業業績の向上は見通しがつかない状態だ。
彼らは、末田薬品で営業畑を歩いていたが、それは、単に会社が作った医薬品を子会社の東京メディシンに卸 すか、他の医薬品販売業者に卸すかの仕事だけだった。
営業の辛酸を味わったことも無く、そこから培われる人情の機微も全く希薄な人間だった。
ただ、その奸智と世渡りの上手さと、末田社長の一門ということで社長に取り入り、可愛がられていたのだ。
ちなみに、高齢の末田社長は、子飼いと思っている二人に言い含めていた。
竹田製薬工業に入り、派閥を作り、いずれ自分の返り咲きに尽力するようにと。
昔、竹田製薬工業が4社を続けて合併した時と同じだった。
だが、その時と違ったのは、二人は神妙に老社長の指示を受けた振りをしただけだった。
良い条件で再就職さえ出来ればそれで良かったのだ。
それに自分たちには、旧末田薬品社員の人望が無いことを十分承知していたのだ。
末田と沼田の二人は、奸智だけは長 けていたが、経営能力は全く無かった。
だが、彼らは自分たちを過大評価しており、左遷されたと受け取っていた。
だから、自分たちの力を示して、親会社の竹田製薬工業に凱旋するように帰ることが彼らの目標だった。
東京メディシンの営業部は、拓馬が課長を務める営業課と営業二課がある。
しかし、末田と沼田の二人が社長と常務に就任した時は、営業三課まであった。
営業課は、医薬品の卸売りが主な業務である。
営業二課は、医療機器の販売を主に扱い、営業三課は、障碍者 や老人用機器の販売が主な業務であった。
その他にも東京メディシンとして、医院や薬局の開業支援、介護士の派遣などの介護事業、企業や地方公共団体などの健康診断の受託業務、食事の宅配事業、在宅老人の健康管理サービス、有料老人ホーム、デイサービスなどが新規事業として検討されていた。
県内の市場調査で、これらの新規事業は、需要があるにも関わらず供給が少ないか、供給の質にばらつきが見られ、非効率な運営主体も散見されたのだ。
サービスの質と効率的な運営に配慮すれば、いずれの事業も有望であるという結論に達し、東京メディシンの営業規模を拡大する絶好の機会と捉 えられていた。
だが、末田と沼田の
それでは困るのだ。
二人にとっては、自分たちの活躍こそが最重要なのだから。
彼らは、新規事業の悉 くに難癖をつけ、不確実なものに投資は出来ないとして検討を中止させた。
社外取締役や部長の頭越しに指示を出し、強引に彼らの方針を進め、部長から社外取締役へ報告する時は、既成事実となっていたのだ。
これを何度も繰り返し、終に営業三課は廃止され、営業二課も現在は開店休業に近い状態が続いている。
それでも、営業二課が存続しているのは、泥沼コンビが自分たちの派閥拡大のための管理職ポストとして利用するためであった。
組織の整理に伴い、毎年大量の退職者が出た。
退職者の殆どは、二人の経営方針に異を唱える者たちだった。
東京メディシンは、泥沼コンビのイエスマンでなくては出世できない会社になっていた。
彼らの行動が問題になりそうなときは、老害を体現したような旧会社の老社長に泣きついて、どうにか収拾してもらったこともあった。
3年前に老社長は死んだが、今や東京メディシンの課長以下のポストは、営業課など一部を除いて、大半が泥沼コンビ派で占められるようになった。
さらに、泥沼コンビは、部長の人事権の奪還はもちろん、社外取締役についても自分たちの派閥から社内昇進させようと画策を始めたのだった。
東京メディシンの内情は、このままでは、やがて自壊する将来しか見えてこない状況にまで陥 っていた。
10年前、140人いた社員も今では半分になっていた。
だが、会社の利益は表面上維持されている。
そのうえ、末田と沼田はいつも上手く言い逃れてきた。
例えば、不採算部門の縮小廃止と、収益性の高い主となる本来の営業部門に労働集約を行う構造改革によって企業体質を強化する。
それによって、企業活動を展開し、将来的にも営業利益を確保する。
という理由などを言い訳として使ってきた。
これで、取締役会も株主総会も、どうにか乗り越えてきたのだ。
しかし、このまま放置すれば、取り返しがつかないことになるのは明らかだ。
ここに至って、智之は、もはや東京メディシン内の自浄作用は、期待できないと判断し、大鉈 を振るう決心をした。
竹田製薬工業が、泥沼コンビの解任とその後の社内体制を具体的にどうするかという検討に入った頃、五菱商事から滅多に無い呼び出しがかかってきた。
しかも、弥一郎社長直々の呼び出しだった。
五菱重工会長の山崎弥太郎氏、同じく社長の豊川良一氏も同席するという。
名指しで呼ばれた社長の智之、副社長の森山、研究開発担当取締役兼部門長の高田裕次、人事担当取締役の高田里帆の四人は、突然のことに一様に不安と緊張を覚えた。
末田薬品を買収して10年が経っていた。
結局、自分の甘さが原因で、未だに社長を辞めるに辞められないのだ。
東京メディシンに送った二人は、
二人を監視するために、3名の社外取締役を派遣した。
部長以上の人事権は、取り上げた。
だが、この二人は会社の実権を握り、会社を思うように経営するようになった。
この10年間、会社の収益はさほど下がってはいない。
しかし、それは毎年の賃金カット、退職者の不補充による人件費の減少、さらに営業の縮小に伴うリストラによるもので、営業業績の向上は見通しがつかない状態だ。
彼らは、末田薬品で営業畑を歩いていたが、それは、単に会社が作った医薬品を子会社の東京メディシンに
営業の辛酸を味わったことも無く、そこから培われる人情の機微も全く希薄な人間だった。
ただ、その奸智と世渡りの上手さと、末田社長の一門ということで社長に取り入り、可愛がられていたのだ。
ちなみに、高齢の末田社長は、子飼いと思っている二人に言い含めていた。
竹田製薬工業に入り、派閥を作り、いずれ自分の返り咲きに尽力するようにと。
昔、竹田製薬工業が4社を続けて合併した時と同じだった。
だが、その時と違ったのは、二人は神妙に老社長の指示を受けた振りをしただけだった。
良い条件で再就職さえ出来ればそれで良かったのだ。
それに自分たちには、旧末田薬品社員の人望が無いことを十分承知していたのだ。
末田と沼田の二人は、奸智だけは
だが、彼らは自分たちを過大評価しており、左遷されたと受け取っていた。
だから、自分たちの力を示して、親会社の竹田製薬工業に凱旋するように帰ることが彼らの目標だった。
東京メディシンの営業部は、拓馬が課長を務める営業課と営業二課がある。
しかし、末田と沼田の二人が社長と常務に就任した時は、営業三課まであった。
営業課は、医薬品の卸売りが主な業務である。
営業二課は、医療機器の販売を主に扱い、営業三課は、
その他にも東京メディシンとして、医院や薬局の開業支援、介護士の派遣などの介護事業、企業や地方公共団体などの健康診断の受託業務、食事の宅配事業、在宅老人の健康管理サービス、有料老人ホーム、デイサービスなどが新規事業として検討されていた。
県内の市場調査で、これらの新規事業は、需要があるにも関わらず供給が少ないか、供給の質にばらつきが見られ、非効率な運営主体も散見されたのだ。
サービスの質と効率的な運営に配慮すれば、いずれの事業も有望であるという結論に達し、東京メディシンの営業規模を拡大する絶好の機会と
だが、末田と沼田の
泥沼コンビ
(拓馬が改革を決心した時からの二人の呼び名)にとって、営業三課の事業やこれらの新規事業は全くの専門外で、自分たちが口出し出来るものではなかった。それでは困るのだ。
二人にとっては、自分たちの活躍こそが最重要なのだから。
彼らは、新規事業の
社外取締役や部長の頭越しに指示を出し、強引に彼らの方針を進め、部長から社外取締役へ報告する時は、既成事実となっていたのだ。
これを何度も繰り返し、終に営業三課は廃止され、営業二課も現在は開店休業に近い状態が続いている。
それでも、営業二課が存続しているのは、泥沼コンビが自分たちの派閥拡大のための管理職ポストとして利用するためであった。
組織の整理に伴い、毎年大量の退職者が出た。
退職者の殆どは、二人の経営方針に異を唱える者たちだった。
東京メディシンは、泥沼コンビのイエスマンでなくては出世できない会社になっていた。
彼らの行動が問題になりそうなときは、老害を体現したような旧会社の老社長に泣きついて、どうにか収拾してもらったこともあった。
3年前に老社長は死んだが、今や東京メディシンの課長以下のポストは、営業課など一部を除いて、大半が泥沼コンビ派で占められるようになった。
さらに、泥沼コンビは、部長の人事権の奪還はもちろん、社外取締役についても自分たちの派閥から社内昇進させようと画策を始めたのだった。
東京メディシンの内情は、このままでは、やがて自壊する将来しか見えてこない状況にまで
10年前、140人いた社員も今では半分になっていた。
だが、会社の利益は表面上維持されている。
そのうえ、末田と沼田はいつも上手く言い逃れてきた。
例えば、不採算部門の縮小廃止と、収益性の高い主となる本来の営業部門に労働集約を行う構造改革によって企業体質を強化する。
それによって、企業活動を展開し、将来的にも営業利益を確保する。
という理由などを言い訳として使ってきた。
これで、取締役会も株主総会も、どうにか乗り越えてきたのだ。
しかし、このまま放置すれば、取り返しがつかないことになるのは明らかだ。
ここに至って、智之は、もはや東京メディシン内の自浄作用は、期待できないと判断し、
竹田製薬工業が、泥沼コンビの解任とその後の社内体制を具体的にどうするかという検討に入った頃、五菱商事から滅多に無い呼び出しがかかってきた。
しかも、弥一郎社長直々の呼び出しだった。
五菱重工会長の山崎弥太郎氏、同じく社長の豊川良一氏も同席するという。
名指しで呼ばれた社長の智之、副社長の森山、研究開発担当取締役兼部門長の高田裕次、人事担当取締役の高田里帆の四人は、突然のことに一様に不安と緊張を覚えた。