第89話  弥一郎の想い人~翌朝 予感

文字数 1,059文字

 翌朝、三和子は早く目が覚めた。
 横に寝ている弥一郎を見ながら取り留めも無い思考の中にいた。

 三和子は、弥一郎とのことは一晩だけでもよいと思っていた。
 入籍はしなかったが、花街に住む結婚歴のある自分と、初婚であり五菱財閥の後継者である若い弥一郎では、条件も住む世界も違う。
 戦前には、芸者を正妻に迎える例は多かったと聞くが、時代も違う。
 弥一郎には、これから五菱財閥の後継者の妻として相応しい女性が何人も現れるだろう。

 それでも・・・と三和子は思う。
 昨夜、自分は妊娠したのではないか?・・・
 死別した夫との間で、このような予感は一度も無かった。

 三和子は、結婚して二年になろうとした頃、まだ夫が発病する前であったが、念のためにと産婦人科医に診てもらったことがあった。
 その時、医師は、まだ二年であれば、これから妊娠する可能性は高いので、あまり気にしないようにと言った。
 ただ、身体に異常はないが、妊娠しにくい体質である可能性はあるとして、妊娠しやすい周期や基礎体温の計り方などを改めて指導を受けたのだが、妊娠はしないまま、夫は亡くなったのだった。

 亡くなった夫とは、一度も妊娠を感じたことは無かったのに、ここ数日は安全日であったはずだし、弥一郎との初めてで妊娠することがあるのだろうかとも思ったが、やはり妊娠したのではという気持ちは、三和子の中で大きくなっていくのだった。

 弥一郎への感情も、お座敷で初めて会った時から、彼の一挙手一投足から目が離せなかった。
 弥一郎との会話は、いつもと変りない風を装っていたが、内心は、踊るような気持ちを抑えながら全身全霊で弥一郎を感じていたのだった。
 もし、亡くなった夫に会う前であったら、自分は迷うことなく、正妻も愛人も関係なく弥一郎の女になっていたに違いない。
 弥一郎は、三和子にとって運命の男性(ひと)だった。

 しかし、自分の想いを弥一郎に押し付けるつもりはない。
 三和子は、弥一郎を起こし、ここは置屋だから他の芸者の目もあるからと帰りを促した。

 弥一郎は、今後のことを話したかったが、三和子に促されるまま帰宅することにした。
 帰り際、電話番号など連絡先の交換を申し出、三和子もそれには応じたのだった。

 弥一郎を帰した後、三和子はシャワーを浴びた。
 何気なく浴室の鏡に映る自分の姿を見た時、左肩にキスマークがあることに気が付いた。
 昨夜の弥一郎がつけたものだった。

 三和子の中で、女の芯がずきんと(うず)いた。
 
 三和子は、右腕で乳房を覆い、体を抱くように左肩のキスマークをそっと隠した。
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