第67話  闇の守護者~準備

文字数 3,235文字

 (ただす)は、元部下である山田吾作が経営する喫茶店「兵隊カフェ」の裏の建物に今後の生活と活動拠点を置くことにした。
 その建物は、山田吾作が用意した物だった。
 さらに、その建物の裏にもあと一つ建物があり、それは一見大きめの小屋であったが、内部は化学薬品の工場のように整備されていった。
 いずれも、直の計画と指示に従って、山田吾作が建設し、施設の整備も進めたのであった。

 直は、それらの進捗(しんちょく)をある程度まで確認すると、さらに山田吾作に何かを頼み、自らも幾つかの用事を済ませた後、故郷の土佐へ一時帰省した。

 直の実父である山崎直弥、実母の澄、そして養父の榊清兵衛は、いずれも直が日本に帰還する前に亡くなっていた。

 直は、先ず、榊家に顔を出し、直の留守を守っていた使用人たちに感謝し、彼らを慰労したのだった。
 榊家の使用人たちは、山崎本家から、直は必ず戻るので、変わりなく留守を守るようにと伝えられ、給金も支払われていたのであるが、やはり直が戻るまで不安な日々を送っていた。
 直の帰りを目の当たりにして、使用人たちが喜びに沸き立ったのは言うまでもない。

 直は、今後のことについて彼らに指示を出すと、その足で山崎本家に向かい、本家の当主となった弟の直道と5年ぶりの再会をしたのだった。
 兄弟は、抱き合って再会を喜び、その足で両親の墓へと詣でた。
 また、榊家の墓は、山崎本家の墓に隣接しており、当然のこと養父清兵衛の墓も詣でたのだった。

 それから二人は、当主と当主に許された者しか入ることが出来ない蔵へと入った。

 
 
----直が日本へ帰還する前----

 進駐軍は、財閥解体を徹底的に(おこな)うため、各財閥における傘下企業への支配体制を詳しく調べた。
 どの財閥もその支配体制は、似たり寄ったりであったが、最大財閥である五菱についてだけは、首をかしげるほど異質であった。
 山崎家の持ち株比率が、五菱本社にしろ各傘下企業にしろ極端に低かったのだ。
 それがどうして財閥の代表として君臨出来たのか疑問に思った進駐軍は、経済警察に徹底解明を命じたのだった。

 経済警察は、1938年(昭和13年)に戦時の統制経済違反を取り締まるために設けられた警察であるが、戦後も経済の混乱が続く中1948年(昭和23年)まで存続した。
 調査に当たった経済警察は、特に不審な点を見出すことは出来なかった。

 経済犯罪を取り締まるとはいえ、元々闇取引の取り締まりが主であった経済警察では、五菱の先代総帥であった弥之助の財閥解体に備えた工作を掴むことは出来なかったのだ。
 だが、たとえ他の機関が調べたとしても敗戦の10年も前から、それも先代の総帥の時代から行われていた工作を解明することは難しかっただろう。

 結局、五菱については、山崎家と山崎四天王と呼ばれた四家との強い主従の繋がりと山崎家のカリスマ性によるものだとの結論に至ったのだった。
 しかし、このことは後々、小弥太の復権についての大きな障害となった。
 山崎家のカリスマ性と財閥の復活を恐れたアメリカは、日本が独立後も小弥太の復権を阻止し続けたのである。

 山崎家が所有する資産も1万5千坪を有する本邸の他は、ごく僅かであった。
 進駐軍は、何処かに隠し資産があるのではないかと、土佐の山崎本家や榊家なども強制捜索をした。

 山崎本家の資産は、目ぼしいものと云えば広大な山林だけであった。
 山崎本家は、四国では名士として知られていたが、財閥とまで言えるものではなく、財閥解体の対象にはなり得ないものであったが、用心のため五菱の山崎家と同様な措置を行っていたのだ。

 進駐軍と経済警察は合同で、ジープとトラックを連ねて山崎本家に乗り付け、山崎本家のみならず、榊家の邸内も隈なく捜索したのだった。
 (くだん)の蔵も捜査員が入って調べたのだが、何も発見できなかった。

 蔵の立ち入りについては、当主となっていた直の弟の直道が立ち会ったのだが、彼は内心不安で仕方が無かった。
 始祖様のお指図どおり、全ての莫大な現金や株券などの有価証券、権利証などを蔵に収めていたからだった。

 だが、いざ立ち入りの時、蔵へと案内した直道と進駐軍や警察官の眼前には、朽ち果てたような蔵があるのみだった。
 外部は、壁がはげ落ち、所々穴が開いており、長い年月使われているとは思えないほどの老朽化であった。
 内部も床や壁の板は腐り、床は抜け、蜘蛛の巣だらけであり、最早長い年月使われていないのは明らかであった。
 中に収蔵した物も全て無かった。

 捜索に当たった進駐軍や警察が引き上げた後、直道は途方に暮れ、呆然とし、その場に膝をついて俯いたままであった。

 主の様子を心配した使用人たちが、直道の傍に集まり、その中の大番頭が、

 「旦那様、大丈夫でございますか・・・」

 と尋ねた。
 直道は、俯いたまま顔を上げることも出来ず、

 「ああ、私はどうしたら良いのだ・・・まさかこんなことになるなんて・・・蔵が・・お前たちも見ただろう・・」

 「旦那様、蔵がどうかしたのでございますか・・」

 「何を言う・蔵がこんな・・・」

 顔を上げた直道の前には、元通りの蔵があった。

 直道は、アメリカの捜査官や日本の警察官と内部にも入って確かめたのだ。
 確かに蔵の内外とも朽ち果て、内部はがらんどうだった。
 手で触って確認もした。
 使用人たちも見たはずだ。
 だが、彼らは皆、最初から蔵は何も変わったことは無かったと言うのだ。

 彼らの記憶は、進駐軍と警察が引き上げた後、書き換えられていた。

 
■■■

 蔵の中で、直と直道は、今後の具体的な計画と行動について、話し合い、確認をした。
 直は、あらかじめ概略を事前に横浜から手紙で直道に知らせていたが、改めて詳細を詰めたのだった。

 横浜に帰った日、直は、銀行に赴き、帰省する前に開設していた銀行口座を確認した。
 そこには、直道から莫大な金額が振り込まれていた。

■■■

 直は、1947年(昭和22年)日本初の警備会社を設立した。
 以前の時間軸では、日本初の警備会社は、1962年(昭和37年)の設立だったが、それより15年も前に設立されたのだった。
 直の警備会社は、「日本総合警備保障会社」と称した。

 日本を北海道、東北、関東、中部、近畿、中国四国、九州沖縄の七つの地区に分け、それぞれに地区本部を設置し、人員を配置した。
 配置されたのは、直の元部下たちであり、彼らは、日本総合警備保障会社の中核として活躍していくのである。

 地区本部の代表には、元中尉たち7名を充てた。
 また、各本部には元少尉たちを3名ずつ幹部として配置した。
 さらに、各本部には、現場の指揮官として元兵たちを10名ずつ配置した。
 アメリカ軍の捕虜時代に隊員たちを取りまとめていた元中尉の村田藤次は、総本部代表兼関東地区本部長に任命した。
 しばらくの間、関東地区本部が総本部を兼ねることにしたのだった。

 直は、10名の元兵を直属の部下としたが、直自身の役職は、総本部におけるただの顧問とし、表には出なかった。
 だが、直は実質的なオーナーとして、元部下たちは、ほぼ同時期に直が設立した政治団体で、彼が「総裁」と呼ばれていることを知ると、同じく彼を「総裁」と呼ぶようになった。
 
 日本へ帰還した直の元部下は118名であり、内訳は、中尉が7名、少尉が21名、兵が90名であったが、兵のうち10名は直の新規事業に加わらなかった。
 帰省した故郷での、それぞれの事情が許さなかったのだ。

 警備会社の設立直後は、社会はまだ警備会社の需要が少なく、顧客は五菱グループの企業とその関連会社だけであったが、着実に実績を積み重ね、顧客も増加していった。
 さらに、1964年の東京オリンピックを境に日本は、高度経済成長の時代に入り、日本総合警備保障会社の業績は、飛躍的に伸びていくことになったのである。

 直の表の顔である「日本総合警備保障会社」は、順調に成長していった。
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