第69話  闇の守護者~ヒロポン

文字数 2,076文字

 直は、表の顔である日本総合警備保障会社の創業に奔走する傍ら、やがて闇の守護者と言われる本来の目的のために、横浜を本拠地として動き出した。

 生活と活動の拠点は、「兵隊カフェ」の裏にある建物である。
 表向きは警備会社の社員で、直の直属となった山田吾作が用意した建物を利用することにしたのだ。

 その建物のさらに裏に少し大きめの小屋がある。
 この中で、直は、吾作の弟で兄と同じく直の直属となった山田忠夫を助手として、ある物を作り始めた。
 高純度の「メタンフェタミン」である。

 メタンフェタミンは、覚醒剤であり、常用すれば中毒となり、やがては廃人となる。

 だが、この薬品は、主に疲労回復や眠気解消に効果があり、仕事の能率性を向上させる有益な薬品として認識されていた。
 最も有名なのは、1941年(昭和16年)に大日本製薬から発売された「ヒロポン」である。
 他の薬品会社も薬品として発売したのだが、なかでも最も宣伝され、製造量も多かったのが大日本製薬の「ヒロポン」であり、後に覚醒剤の代名詞ともなった

 ヒロポンは、戦前、軍部を中心に、夜戦の兵士や軍需工場などで使用されていた。
 だが、それらは錠剤が主であり、適量を一時的に用いていたので、深刻な被害が出ると云う程では無かった。

 戦後、軍が貯蔵していた大量のヒロポンが市中に出回るようになった。
 このため、在庫を抱えることになった製薬会社は、新聞雑誌での大々的な宣伝を始めたのだった。

 戦後の退廃的な気分の中、文壇や芸能人の間で、最初は、嗜好品的な感覚で始ったのだろうが、そのうち常習する者が増えていった。
 さらに、錠剤より効き目が強い注射薬が発売されると、大量の乱用が始まった。
 ヒロポンは、市販の薬品として街の薬局でも自由に買えたことが、それに輪をかけたのだった。

 文壇の人間や芸能人に限らず、大勢の人間がヒロポン中毒になっていった。
 敗戦で、それまで信じていた全ての価値が崩壊し、虚脱の中で自暴自棄に陥った人々が救いを求め、ヒロポンは爆発的な流行となったのだ。

 最盛期の昭和29年には、覚醒剤常習者は、285万人、うち中毒者は80万人から100万人であったと推計されている。
 銭湯で注射痕のある人間を見るのは、特に珍しいことでは無かった。

 昭和22年頃から、一部では副作用の危険性が認識され始めたのだが、薬事法で劇薬指定されたのが昭和24年、覚醒剤取締法が施行されたのが昭和26年であるが、時すでに遅かったのである。
 昭和25年の夏までには、どこの薬局でも発売されなくなったのだが、人々は薬を探し求め、副作用が強い密造の粗悪品でも飛ぶように売れた。
 結果、粗悪な密造品が大量に出回ることになり、深刻な被害に苦しむ人たちも多く出たのだった。
 昭和28年に大阪府警が押収したアンプルは2170万本であったが、その年、大日本製薬の大阪工場から出荷されたアンプルは14万本に過ぎなかった。
 市中に出回っていた殆どが密造品だったのだ。

 覚醒剤の第一次乱用期は、昭和29年をピークとするまで続いた。

 ヒロポンの密造は、戦後の早い時期から始まっていた。
 戦後の闇市では、カストリ焼酎一杯の値段が、ヒロポンのアンプル1本の値段であった。
 その後も、アンプル1本が、映画の入場料の十分の一ぐらいの値段とも言われた。
 そのような安価で手に入ったのだが、それでも原価の十倍であったのだ。
 そのため、新興の暴力団(半グレ集団)は、積極的に密造ヒロポンの売買に手を染め、勢力を伸ばしていった。


 メタンフェタミンは、かぜ薬やぜんそく治療薬に含まれるエフェドリンから、接触触媒法と言って、金属触媒を使い水素ガス加圧下での還元反応により生成する。
 こう言うと難しく聞こえるが、専門家からすれば、そう難しくはない。

 直は、帝都工業大学理学部で化学を専攻しており、この手の工程は熟知していた。
 また、作業を行う小屋の周囲の土地は、全て山田吾作の実父の所有であり、横浜の雑踏からは、やや離れた所でもあったので、広範囲にわたって建物を建設せずに空けていたのだ。
 周囲に人家が無いことは、密造にも適していた。

 人に見られることが少ないだけでなく、水素ガスボンベやガスバーナーが必要なので、火災の心配があったし、臭気や、生成の過程で有毒ガスの発生、有毒液を漏出させるなど、周囲に迷惑をかける恐れもあったからである。

 原料のエフェドリンは、山田吾作が、南鮮から大量のぜんそく薬を輸入し調達した。
 ちなみに昭和28年には、エフェドリンは禁輸となり、エフェドリンを含むぜんそく薬やかぜ薬も輸入できなくなったが、密輸は絶えなかった。

 直たちは、ヒロポンを密造したが、利益を得るためではなく、標的を釣るための餌であったので、分量は、そのために必要最小限な量のみであった。
 そして、彼らが製造する密造ヒロポンは、非常に純度が高く、高品質であった。
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