第55話  高田里帆

文字数 10,535文字

 ----父と子どもの頃の私 ----

 月並みだけど、父は優しい人だった。
 いつも忙しくて、家に帰って来るのも遅かったし、朝、私が目覚めた時は、すでに出勤して家にいなかった。

 だから、父は、家にいるときや(たま)の休みには、私や弟の遊び相手になって一日中遊んでくれた。
 私と弟は、父が家にいるときは、(まと)わりついて離れなかった。

 父は、自作の色んなお話を聞かせてくれた。
 私は、父の話の中に出てくる人物にとても惹かれた。
 その人物たちの性格や家族の事、住まいの事、お友達の事、どんな場所に住んでるかなど、つまり、登場人物の全てに興味があって、父に根掘り葉掘り尋ねていた。
 父は、「お前は俺にそっくりだな」と言いながら、いつも詳しく話してくれた。
 私は、幼心にも、一人一人の人間には、その人の物語があるんだと思うようになった。
 私は、他人に人一倍関心を持つ子どもになっていった。

 ところが、せっかく父が家にいるときは、よく人が訪ねて来た。
 父は、いつも来客を書斎に通して、何かを話しているようだった。
 私は、早くお客様が帰らないかと父の傍にいた。
 もちろん、大事そうな話があるときは、部屋を出ていたりしたけど、お話も一段落した頃を見計らって入室しては、来訪した人たちに色々と尋ねたり、お話をしたりした。
 大人の人たちは、そんな私を可愛く思ってくれたらしく、皆が丁寧に受け答えをしてくれていた記憶がある。

 私は、幸せな子どもだったと思う。
 愛らしいとよく言われた。
 人懐っこいとも言われた。
 嫌な顔をされた憶えがない。
 大人から嫌な顔をされたことのない私は、人を疑うと云うことが全くなかった。
 でも、これは両親にとって心配の種でもあったようだ。


 ---- 籠の中のイチゴ----

 ある日、私は母親と一緒に買い物に行ったのだけど、母が店の人と話をしている時、籠に果物を入れた男の人を見つけて、その人の後を付いて行ったことがあった。
 私は、その男の人に付いて行ったら、好きなイチゴがもらえると思って、少しの不安も無く付いて行ったのだ。
 途中で、その男の人は、私に気付いて困惑しながら、私に色々尋ねたのだが、私は、イチゴが気になって籠の中ばかり見ていた。

 しばらくして、私は、その男の人と交番にいた。
 私は、上機嫌でイチゴを食べていたそうだ。
 イチゴを食べ終わって、私は、おまわりさんにすらすらと名前や住所それに電話番号を言ったそうだ。
 おまわりさんが、あきれ顔で私の家に電話を入れている時、蒼い顔をしたお母さんが、交番に飛び込んで来た。

 私がいないことに気が付いた母は、必死になって探し回った挙句、交番に飛び込んで来たのだ。
 交番の中に飛び込んで来るなり私に気が付いた母は、私の名前を呼びながら目に涙を溜めて私を抱きしめた。

 私は、知らない人に付いて行ったらだめよと、いつも言われていたことを思い出し、母に心配をかけたことを子供心に後悔した。
 それからは、人に付いて行くことはしなくなった。


 ---- お手紙大作戦 ----

 幼稚園には、年少、年中、年長の3年間通った。
 私が通った幼稚園は、遊べ遊べの幼稚園で、一日の殆どは園庭で遊ぶか、2、3キロ以上離れた所まで、ちょくちょく散歩に行っていた。
 発表会も、コマ回しや、竹馬に乗れるようになったとか、ホッピングや縄跳び、といったものを父母に見せるもので、年長の園児の中には、一輪車乗りを披露する子もいたりで、私たちにとっては、いつもと殆ど変わらない内容であり、園児は皆喜んで、参観に来た父母と遊んでいた。

 だから、園児は皆、字を覚えるということが全く無かったのだけど、私は年中の時に字を覚えたいと思った。
 母に頼んで、平仮名と片仮名の五十音字の表と練習帳を買ってもらい、母に聞いたりしながら一生懸命に字を覚えた。
 テレビの子ども番組を録画していたので、ビデオを見ながら、字が映ると止めて、その字を書き写していた。
 そのうち、セリフを聞いて、それを平仮名で書いたりした。

 努力の甲斐あって、ようやく字を覚えた私は、幼稚園でお友達に、「里帆のお手紙が欲しい人いませんか?」と大声で皆に尋ねた。
 女の子のお友達は、殆どが手を挙げたので、じゃんけんで決めてもらった。
 翌日、私は、初めて書いたお手紙をその子に渡すと、その子は、とても喜んでくれた。
 でも、手紙をもらえなかった他の子たちが、「私にも書いて! 私にも書いて!」とせがんでくるので、また、じゃんけんで次の子を決めることになった。
 数日後には、男の子たちも手紙が欲しいと言い出したので、それから1ヶ月は、毎日手紙を書いて、年中組のお友だち全員に渡すことが出来た。
 大変だったけど、私はとても嬉しかった。
 私が字を覚えたいと思ったのは、皆にお手紙を書きたいと思ったからだ。

 私の手紙は、「何々ちゃんへ いつも遊んでくれてありがとう。」から始まって、お友達が何かしてくれたことへの感謝や、一緒に何かをして楽しかったねとか、好きな食べ物や好きなテレビアニメのキャラクターを書いた後、最後に「また一緒に遊ぼうね。」という内容を全文平仮名と片仮名で書いたものだった。
 封筒や便せんも自分で洋白紙を切り貼りして作った。

 でも、お手紙を書きだして2ヶ月が経っても、誰もお返事をくれないことに気が付いて、少し悲しくなった頃、初めて女の子からお返事をもらった。
 その子は、字を覚えていなかったので、一生懸命に家で覚えて返事を書いたとのことだった。
 それから次々と、お返事をもらえるようになっていった。
 私も含めて園児の字は、どれも(つたな)いもので、大人には何を書いているのか、よく分からないものも多かったと思うけど、私たちは、不思議と、お互いに何を書いているのかが分かった。

 年中組の園児の間では、お手紙のやり取りが流行になって、いつの間にか皆が字を覚えていた。
 ちなみに先生にも、皆にお手紙が欲しいかと聞いた最初の日に渡したのだが、とても大きなリアクションで喜んでもらえて、私もとても嬉しかった。


 ---- 入社 ----

 私は、短大を卒業して竹田製薬工業に入社した。
 私が、竹田製薬工業に入ったのは、単に父が働いている会社で私も働きたかったからだけど、私が、竹田製薬工業に入りたいと父に言った時、父は複雑な顔をした。
 父は、仕事が好きだったし、いつも医薬品のことを楽しそうに話していた。
 でも、会社のことは、あまり話さなかった。
 ただ、竹田智之社長のことは、いつも心配していた。

 会社では、総務に配属になって、色んな人と話すことが多くなり、段々、会社の内情が分かってきた。
 でも、私が知り得たことは、会社には派閥があって色々問題が起こることもあるという程度で、深い内容は知らなかった。

 私の認識は、やっぱり、どこの会社にも派閥があるんだなと思ったぐらいだった。
 私は、どんな人とも親しく話していたので、会社の中が、あんなになっていたなんて後で知った時は、ショックだった。


 ---- 彼との出会い ----

 入社して3年半が経った。
 私は、総務部総務課の所属だった。
 人事課が行う新採者の6か月目研修の手伝いに駆り出された時、初めて研究開発部門の高田裕次さんを見たのだけど、一目惚れだった。
 私は、人に話しかけるのが好きなのに彼にはどうしても話しかけられなかった。
 でも、そんな心配は不要だった。
 裕次さんが、積極的にアプローチしてくれたのだ。

 裕次さんは、目立たないけど、本当は、考え方というか生き方というものがはっきりしているのが後で分かった。
 彼から、社長派と敵対する抗争派閥のことを聞いて驚いてしまった。
 抗争派閥の人たちが、どういうことをしてきたか、今も何をしているか、彼らのために責められる謂われの無い人が、理不尽に苦しめられたこと。
 生え抜きの社長派の中には、抗争派閥と闘う人たちがいるらしい、というものだった。

 そんなことは、3年間勤めていたけど何も知らなかった。
 私は、ただ色んな人と話をするのが好きなだけだったのだ。
 裕次さんの話の内容は、俄かに信じられないようなものばかりだった。
 話の内容には驚いたけど、どこかまだ他人事だった。

 それより、私の心の中の大部分は、裕次さんで占められていた。
 彼も、だから自分はこうしたいのだと云うことは話さなかった。
 数か月後、私たちは婚約をした。


 ---- 父の遺志 ----

 私たちが婚約をしてすぐ父が病に倒れ、入院後わずか2ヶ月で他界した。
 最期に父は、2個のブリーフケースを私に託した。
 そこには、抗争派閥との闘いが克明に記された資料や不正の状況証拠が入っていた。
 父は、出来るなら私を巻き込みたくは無かったのだと思うけど、私は、父の資料を見て、父の遺志を継ぐことを決心した。

 しかし、途方に暮れたというのが本当のところだった。
 父は亡くなる時、「山崎弥太郎氏に連絡を・・・」と言った。
 だが、なぜ竹田社長ではないのか、女の身で、それもただの平社員の自分がどうしたらいいのか、裕次さんに相談しようか、いや入社して1年足らずの彼に相談しても面倒に巻き込むだけだと思い直し、ずるずると1年が過ぎ、いよいよ結婚式が間近になってしまった。

 これ以上、裕次さんに黙っていることが出来なくなって話すことを決心した頃、結婚式の代表世話人を引き受けてくれた裕次さんの親友である吉岡孝太郎さんの父親が、五菱重工の総務部長ということが分かってからは、話が急展開していった。

 裕次さんも私の話を聞くと、「僕もお義父さんの遺志を継ぐ」とはっきり言ってくれた。
 裕次さんは、直属の上司の行動に不信を抱き、色々と調べた結果、確実な証拠を掴んだ訳ではないが、抗争派閥が重大な不正を働いていると確信していた。

 まだ入社して2年の彼が、そこまで行動していたことに驚いた。
 しかも、自分で調べたと云うのだ。
 仲間もいるとのことだった。


 ---- 新プロジェクトへの参加 ----

 孝太郎さんの父親吉岡幹一氏の話によると、五菱重工の弥太郎社長は、竹田製薬工業の再生プロジェクトを計画していた。
 その内容を聞いた私たちは、プロジェクトに参加することを決心した。
 これしか解決法は無いと思ったからだ。
 近藤統括などの父の仲間の人たちも加わった。

 私の役目は、社内の情報を集めることだったが、抗争派閥の人が私を警戒する様子は無かった。
 でも私は、昨日まで仲良くしていた人を探らなければいけないことが苦しく、心に葛藤があった。

 私は、近藤統括や裕次さん、それに五菱の吉岡幹一氏や孝太郎さんらと相談しながら情報の収集をした。
 私が集めた情報が非常に重要なものだったことが、偶々(たまたま)なのだが幾度かあり、派閥のメンバーから頼りにされるようになった。
 ただの僥倖(ぎょうこう)だったのに戸惑うばかりだった。


 ---- 人事のエキスパートへの道 ----

 30才で社長室の人事担当主幹になった時は、固辞したけど無理矢理任命されたのが真相だ。
 近藤統括の強い推薦があったと云うことだったので、私は統括を恨んだほどだ。
 そのうえ、権限を取り上げられた蛭川総務部長から色々と嫌がらせを受けた。
 あの時は、本当に悩んで辞めたくなった。
 でも、しばらくすると嫌がらせは無くなった。
 社長や近藤統括が、上手く処理してくれたようだった。

 私が、一番心配したのは、それまで仲良くしてくれた女子たちが、離れて行くのではないかと云うことだったが、杞憂だった。
 女性社員の希望の星のように言われて、女性からますます人気が出てしまい、辞めるに辞められなくなった。
 極めつけは、新生竹田製薬工業の人事部長になった時だった。
 私は、絶対に勘弁してくださいと社長や近藤統括に頼んだけれど、希望は叶わなかった。

 私は、会社が落ち着いたら、お母さんのように家庭に入りたかった。
 だけど皆から止められた。
 裕次さんは、辞めてもいいよと言ってくれたけど、母から家のことや子どものことは私が面倒見るから思い切りやりなさい、と言われて、結局、家庭には入れなかった。


 ---- 本音 ----

 私は、普通の女性だと思う。
 でも、いつの間にか、武闘派の女戦士と言われていることを知った時は、ショックだった。
 私が、武闘派の中心メンバーとして敵対派閥の不正を暴き、あまつさえ、産業スパイ防止法の証拠も集めて立証したような話になっていたのには心底驚いた。

 どうやったら海外の企業の不正の証拠を集めることが出来るというの。
 あれは、香港で死体で発見された仲介人が、隠し撮りしていたものを死ぬ前に香港の日本総領事館に送ってきたから得ることが出来た証拠だ。

 その他の不正の重要な証拠は、裕次さんや彼の仲間が色々工作をして、敵対派閥から集めた情報が殆どだ。
 私は、自分が知り得たことを皆さんに報告したに過ぎない。

 私は、大きく尾ひれが付いた噂を打ち消すために、警察に事の真相を詳しく発表してくれと頼んだけど、警察は詳しい公表はしなかった。
 ただ、香港で死んだ仲介人から証拠となる資料が、警察に届けられていたことは明らかにしてくれた。

 これで、尾ひれが付いた私の噂は無くなるだろうと期待したのだが、今度は、私が仲介人と接触して情報を提供させるように工作したのだという噂が広まってしまい、もうどうしようも無いと諦めた。

 また、警察はしばらくの間、私を警護していたことも後で聞いた。
 私は、あの事件が、それほどに根深いものだったと知って恐ろしくなった。

 裕次さんと子どもたち、母や弟、それに会社の仲間が心の支えだった。
 女子社員からは、相変わらず絶大な支持を受けていて、色んな相談に乗ることも多かった。

 私は、会社の派閥抗争で男の人たちが、人事や職権をめぐって争うのが理解できない。
 私は、男の世界には全く興味が無いのに、どんどん巻き込まれていくのが皮肉としか思えなかった。


 ---- 新生竹田製薬工業発足の頃 ----

 今も思いだすのは、新生竹田製薬工業が発足した頃のことだ。
 従業員は、旧竹田製薬工業の頃の3,000人から三分の一の1,000人に減ってしまった。
 じゃあ、仕事も三分の一にすればいいという問題じゃない。

 継続して納品している医薬品を三分の一にすれば、昔からのお得意様にそっぽを向かれてしまう。
 会社の信用だけは、落とすわけにはいかない。
 併せて、新薬の開発もしなければいけない。

 直接、研究開発や生産に当たる部門は勿論、それらをサポートする内部事務を担当する私たちも、絶望的な人手不足の中、どうにか会社の操業をやり繰りし、乗り越えていけたのは、皆の一丸となってやり抜こうという気持ちだったと断言できる。

 精神論を振りかざして、ブラック化を正当化するような話とは全く違う。

 助け合ってくれる仲間がいると思うだけで、何とかなるという安心感のようなものがあったし、どんな困難な問題があっても辛いとも嫌だとも思わなかった。
 これが逆だったらどうだろう。
 どんなに易しい仕事でも職場の雰囲気が悪ければ、会社に行くことさえ嫌で辛いだろう。

 私の職業人生の中で、新生竹田製薬工業が発足した頃が、一番充実していたと思う。
 ああいう環境で、助け合う同僚や上司、部下といった仲間と仕事が出来たのは、私の一生の宝だ。
 あのような経験が出来た私は、幸せだと思う。

 誰にでも程度の差はあっても、似たようなことは、必ず人生の中にはあると思う。
 その経験を忘れないでほしいと思う。

 なりたくてなった人事担当主幹や人事部長ではなかったけど、今考えると、私が人事関係を担当したのが却って良かったのではないかと思う。
 もし、これが男性だったら、それこそ派閥抗争は、もっと熾烈で苛烈なものになっていたかもしれない。

 それでも、会社を解散し、多くの社員を整理しなくてはいけなかった時は、皆が私を恨むだろうと覚悟した。
 武闘派を初め、生え抜きの社長派の人間は、竹田製薬工業を解雇されても次々と新生薬品に新規雇用されていったが、敵対派閥はもちろん、その他の派閥の人間たちには、明日の見通しさえ立たない状況だったろう。
 それでも、
 「里帆ちゃんが相手だと怒る気はなくなったよ。仕方がないことは自分が一番よく分かっているんだ・・・」
 と言われたとき、私は返す言葉がなかった。
 あんな辛い仕事は、もうこりごりだ。


 ---- 現在 (2,054年) ----

 会社が再生して50年が経った。
 夫の裕次さんは87才、私は86才で、二人ともすこぶる元気だ。
 今は、二人とも会社の最高顧問に祭り上げられている。
 月に一度か二度は出社して、長衛社長の話し相手をしている。
 長衛社長は、智之社長の娘婿である森山社長の長男で、智之社長の養子となって竹田家を継いだ。
 確か、今年62才だったと思う。
 長衛という名は、智之社長の御祖父で旧竹田製薬工業の初代社長の名を取ったのだ。
 こんな年寄りの話のどこが良いのか、子どもの頃から変わった坊ちゃんだったけど・・・実は、私も長衛坊ちゃんに会うのが楽しみだ。

 今日は、後輩たちに講演をするよう頼まれて出社している。
 時々、こうやって講演も頼まれるのだ。

 竹田製薬工業は、今や世界的グローバル企業として、ヨーロッパ、南北アメリカ、東南アジア、アフリカを中心にして、世界80ヵ国で事業展開し、海外従業員数4万人、笠間小見市のグローバル本社に6,000人、さらに関連会社は300社に上る大企業に成長した。

 最近、新生竹田製薬工業50周年を記念して、社史が編纂された。
 大正時代に旧竹田製薬工業が創業されてから、現在の竹田製薬工業に至るまでの会社の歴史が編纂されたのだ。
 ところが、この私が、今日の礎を築いた功労者の一人として、名前が載ってしまったのだ。

 歴代社長の名が記載されるのは当然として、近藤さんや裕次さんの記述があるのは分かるけど、私までもが、その人たちと同じくらいのスペースを()いて載っている原稿を見た時は仰天した。
 すぐ削除するよう元部下たちに申し入れたけど、私の言う事を聞いてくれず、そのままだ。

 社史の内容は、新入社員の研修にも使われるので、時偶(ときたま)出社すると、社員の私を見る目が尋常じゃない。
 私を尊敬するような仰ぎ見るような視線に、面映(おもは)ゆくて居たたまれない。

 早く、最高顧問も辞めて、孫やひい孫と、のんびりしたり遊びたいのに。
 長衛坊ちゃんから、昔のことを決して忘れないように私や裕次さんの話が聞きたい。
 それに、決して忘れてはいけないと云うのは祖父や父の遺志だと言われれば仕方ない。

 でも、社史の中に私のことを〔人事の女神〕と評する部分があったので、これだけは削除してくれと強硬に申し入れたけど、やはり埒が明かなかった。
 それで、とうとう長衛坊ちゃん、(もと)い長衛社長に直談判することにした。
 私に関する記述は、全て削除してくれと言ったが、案の定、それは無理だと言われたので、〔人事の女神〕だけは削除してくれ、削除しないなら最高顧問は辞める、と言ってようやく削除してもらった。

 私が、女神だなんて烏滸(おこ)がましいにも程がある。
 それにあの方、山科拓馬氏に知られたら、私は、恥ずかしくてもう表にも出られなくなる。
 私が、あの方に会ったのは、35年前だった。


 ---- 35年前 (2,019年) ----

 竹田製薬工業が、事業の海外展開を本格的に始めた頃で、私は、前年に人事担当取締役に抜擢されて、長期の海外出張から帰ったばかりの日だった。

 当時、五菱商事の社長だった山崎弥一郎氏から智之社長に、緊急のしかも重大な話があるので、五菱商事本社にすぐ来るようにと電話があった。
 智之社長、森山副社長、研究開発担当取締役になっていた夫の裕次さん、それに私までもが名指しで呼ばれたのだ。
 大急ぎで五菱商事本社へ向かったが、本社の社長室には、社長の弥一郎氏の他に副社長の荘田氏、五菱商事国内商事部門本部長の吉岡孝太郎さん、それになんと五菱重工の豊川社長、そして五菱重工会長で五菱グループ代表の山崎弥太郎氏まで揃っていたのには驚きを通り越して、私は蒼褪(あおざ)めていたに違いない。

 顔ぶれを見て、敵対派閥と闘った日々が一度に思い出され、また同じようなことが起こるのではないかと思ったのだ。
 だが、五菱の方々は真剣な顔をしているものの、これから起こることにどこか期待や興奮、好奇心と云ったものが感じられて、少し不謹慎ではないかとさえ思ってしまったものだ。

 それから、一人の青年を紹介された。
 竹田製薬工業の子会社の東京メディシンの営業課長に、三段跳びで抜擢された山科拓馬氏だった。
 私は、海外出張中だったけど、夫の裕次さんから、山科氏が龍馬坊ちゃんをトラックから庇って助けたことや、課長昇進のことは電話で聞いていた。

 山科氏は、当時まだ28才の青年だった。
 私は、(いぶか)しがりながら自己紹介をした。
 その後、あらかじめコピーが用意されていた報告書と資料が配られた。
 画面共有したPCも準備されていた。
 報告書と資料を作成したのは山科氏だった。

 あの時の驚きは、今でも思い出すと身震いがする程だ。

 私は、当時はすでに人事の神様などと言われていた。
 私が顔を出すだけで社員は緊張し、不正は決してしていませんという顔をするのだ。
 そういうことが続くと、不正をしている人が本当に分かるようになってしまった。
 そのため、会社の規模が急激に拡大しているにも関わらず、社内の不正は全く無い。
 竹田製薬工業の社内風土とも言えるほどなのだ。

 山科氏が報告した内容は、個々の不正というよりも会社を滅亡に導くと云う点では、もっと大きな不正というものだった。
 さらに、解決法や新たな事業展開まで正に的確な計画が記されていた。
 私が驚いたのは、人材の把握や配置基準だった。
 人材には、10年以上前に辞めた人や社外の人まで含まれていた。
 氏は、まだ入社して10年だった。
 私は、(たと)えではなく頭痛がした。
 世の中には、こんなことを現実にやってのける人がいるのだと思い知った。
 私はあの時、この人の背中さえ見えないと、ぼんやりと思った。

 今は、背中どころか、あの方は天上界の方だ。
 女神などと言えば、まるで私も天上界にいるみたいじゃないの。
 私は、そんな厚かましい、身の程知らずの、恥知らずな女じゃない。

 今では、日本中知らない人はいないと言われているのが、あの日の山科青年だ。

 あの日、あの方が帰った後、残った私たちは思い思いの感想を述べた。
 その中で、五菱商事国内商事部門の本部長になっていた孝さん、吉岡孝太郎さんの言葉が今でも忘れられない。
 彼は、「このような人材が埋もれていたことの方が驚きです」と言った。
 もちろん、親会社の竹田製薬工業を非難したり揶揄(やゆ)するものではないことは十分承知していたけど、私は恥ずかしさで、きっと顔を真っ赤にしていたに違いない。

 私は、東京メディシンに派遣された社外取締役の報告書を、いつも丹念に読んでいた。
 いや、読んでいた積りだったのだ。
 それに、社外取締役に確認することも時偶(ときたま)にしかしなかった。

 智之社長は、東京メディシンに出向させた末田と沼田のことをいつも警戒されていた。
 監視のために社外取締役を3人派遣し、部長以上の人事権も取り上げていた。
 私の進言によるものだった。

 私は、内心それだけで良しとしていたんだと思う。
 大事なことが何も分かっていなかった
 会社がこうなる前にどうして有効な手が打てなかったのか。
 あの天才的と言える青年をなぜ見出すことが出来なかったのか。
 私は、自分の未熟を思い知らされた。

 私を信頼してくれていた社長にも申し訳が無く、自分の不甲斐無さを泣いて詫びながら社長に退職願いを出した。
 この時も色々あったのだが、結局私は会社に残ったのだけど、後で冷静になって考えてみると、私ごときがあの方を人材として見出すなどと云うのは、上から目線そのものだ。
 それこそ烏滸がましい考えだった。
 今はただ、あの方が私たちの味方だったことに感謝するだけだ。


 ---- 今日の講演 ----

 今日の講演のテーマは、〔 人材発見のきっかけ 〕と云う内容なのだが、参加者の殆どは、私が竹田製薬工業の再生プロジェクトで闘った日々についての方が興味があるので、そちらの話に途中から移ってしまうだろう。
 私は、皆がいかに私を買被(かいかぶ)っているのかを力説するのだが、本当に聴いているのだろうか?
 終わるといつも万雷の拍手で、今日も徒労に終わったのだろうかと思ってしまう。

 今思えばあの時、私を東京メディシンに出向させてもらって、あの方の(もと)で働かせてもらっていたら(私の中では、師匠の(した)で修業させてもらうと云う事なのだが)、もっと使い物になっていたと思う。
 そんな日はもう来ないなと思いながら、今日も講演をする。

 山科氏には、死んでも遠く及ばないが、何もしなければ益々遠くなる。
 孫やひい孫とも遊びたいが、今はこれに集中しようと気持ちを切り替えて、講演会場のドアを開けた。

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 拙作をお読みいただきありがとうございます。
 当作品は、これで第一幕目が終わり、次回第56話から新しい展開が始まり、第二幕の幕開けとなります。(東京メディシンのその後についても触れます。)
 引き続きお読みいただければ幸いです。
 第二幕もよろしくお願いいたします。
 また、寒さ厳しき折、読者の皆様にはどうぞお身体ご自愛ください。
                           
                            令和2年(2,020年)1月10日
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