第77話 東京メディシンの発展
文字数 2,190文字
社長就任から2ヶ月間は、拓馬にとっても目の回る忙しさだった。
だが、能力の使用は、最小限に抑えた。
それでも、常識的に考えて、あり得ないほどの速さで、事業計画は進んだ。
東京メディシンが手掛ける社会福祉施設の第一号である老人ホームの建設も始まった。
施設の設計から運営までかなり口を出してしまったが、プロジェクトのメンバーがそれぞれ問題点だと認識している事への解決策としての助言に止 めたので、皆からは大いに感謝された。
拓馬としては、早急に第一号を作ってしまえば、それ以降は、第一号のノウハウが活かせるので、第二号からは社員に出来るだけ任せるつもりだった。
設計を任せる建築士についても、拓馬と栞が泥沼コンビを排除するための資料作成の期間中にすでに信頼できる適任者を選任していた。
用地取得についても、単に帳簿上の数字を合わせるだけの、それまでの税理士との顧問契約を解除し、必要とあれば経理面からアドバイスが出来る有能な税理士に替えたのだが、その新しい税理士から有益な情報が入った。
彼が相続税申告を手掛けた元農家が、自家の事業資金のため広大な農地を売り出すことになり、相談を受けたと云うものだった。
所在地も東京メディシンがある阿見浦市の南部であり、常磐線の駅も近くにあり、立地条件も申し分なく、拓馬は直ぐに地権者と交渉の上、買収を行った。
市街化調整区域では無かったため、開発もスムーズに進めることが出来たのだった。
同時並行で進めていた薬局の開業支援についても、拓馬が課長に昇進した時、係長の荒木と主任の大鶴を連れて訪れた従業員店長の開業が本決まりとなった。
東京メディシンの資金調達については、拓馬が社長就任の時、五菱商事をはじめとして五菱グループによる大幅な増資がなされたのだが、それだけでなく、必要であれば五菱銀行からの融資も約束を取り付けることが出来た。
この融資計画については、五菱銀行内で異論もあったのだが、山崎弥太郎が、五菱評定で東京メディシンの事業計画や、驚くべき人材活用などを説明し、五菱グループとして全面支援していくことを改めて提案したことにより、東京メディシンへの融資は、担保物件より事業の将来性を評価すると云う方向へ変わった。
また、曲がりなりにも新設の老人ホームの用地建物が担保物件としてあるので、金融庁からの指導を受けることは無いだろうと云う結論になったのだった。
それでも、拓馬としては、山崎代表や五菱グループに迷惑をかけることは出来ないし、倍に増員された東京メディシンの社員たちの生活のためにも早く結果を出せるようにと事業を速めたのだった。
社会福祉施設からの収益としては、非営利法人である社会福祉施設から利益の配当と云う事はない。
しかし、用地、建物の賃貸料の他に、老人用や障碍者用の各種機器から入浴設備といった物まで一手に納品が出来、その後の維持メンテナンスの収益も見込める。
施設側にとっても、初期費用負担がほぼ無いに等しく、国や自治体からの補助金や融資制度の活用と比較してもメリットが大きいように配慮した。
また、国や自治体の補助金を受けるとなると様々な規制を受けることになり、それらの規制をクリヤするだけで、それ以上の独自性を発揮できる余力がなくなると云うデメリットもあるため、いずれ施設へ派遣されるプロジェクトのメンバーにも大変好評であった。
人材活用の面からも、東京メディシン内だけでなく広域に人材交流が可能となり、従来より有能な人材発掘の機会が増えるメリットがある。
さらに、社会福祉施設を設立することで、東京メディシンが営利事業だけではないと云う社会的評価も高まることは確実であり、東京メディシンの将来性においても大きなメリットとなったのだった。
薬局の開業支援についても、開業後の医薬品等の納入について、有利な立場を確保できるのでメリットは大きい。
開業後も、経営支援、顧客開拓、情報提供などのケアを続けていけば、継続的なWIN WINの関係が見込める。
実際、薬局開業支援の第一号となった件の従業員店長は、その後、全国的な薬局のチェーン展開に成功し、東京メディシンに大きな利益をもたらした。
開業資金については勿論のこと、その後の事業拡大のための資金についても相談に乗り、五菱銀行からの融資を取り付けたのは言うまでもない。
その後、薬局開業は東京メディシンという評価が定着し、営業課係長だった荒木は、部長待遇のスーパーバイザーとして、全国を駆け回ることになるのだが、この第一号と言える開業支援で拓馬から開業のイロハを叩きこまれたのだった。
そのため、荒木の拓馬にたいする傾倒は尋常ならざるものがあり、拓馬は、自分を教祖のごとく崇 める荒木の精神を心配したほどだった。
数年後には、東京メディシンは自力での資金調達も可能となり、もはや、竹田製薬工業の子会社でも五菱商事の子会社でもなく、独立を果たした。
やがて、山科グループの一角を占める企業に成長していったのである。
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作品を読んでいただきありがとうございます。
そろそろ「第1話 失恋」の回収をしたいと考えています。
だが、能力の使用は、最小限に抑えた。
それでも、常識的に考えて、あり得ないほどの速さで、事業計画は進んだ。
東京メディシンが手掛ける社会福祉施設の第一号である老人ホームの建設も始まった。
施設の設計から運営までかなり口を出してしまったが、プロジェクトのメンバーがそれぞれ問題点だと認識している事への解決策としての助言に
拓馬としては、早急に第一号を作ってしまえば、それ以降は、第一号のノウハウが活かせるので、第二号からは社員に出来るだけ任せるつもりだった。
設計を任せる建築士についても、拓馬と栞が泥沼コンビを排除するための資料作成の期間中にすでに信頼できる適任者を選任していた。
用地取得についても、単に帳簿上の数字を合わせるだけの、それまでの税理士との顧問契約を解除し、必要とあれば経理面からアドバイスが出来る有能な税理士に替えたのだが、その新しい税理士から有益な情報が入った。
彼が相続税申告を手掛けた元農家が、自家の事業資金のため広大な農地を売り出すことになり、相談を受けたと云うものだった。
所在地も東京メディシンがある阿見浦市の南部であり、常磐線の駅も近くにあり、立地条件も申し分なく、拓馬は直ぐに地権者と交渉の上、買収を行った。
市街化調整区域では無かったため、開発もスムーズに進めることが出来たのだった。
同時並行で進めていた薬局の開業支援についても、拓馬が課長に昇進した時、係長の荒木と主任の大鶴を連れて訪れた従業員店長の開業が本決まりとなった。
東京メディシンの資金調達については、拓馬が社長就任の時、五菱商事をはじめとして五菱グループによる大幅な増資がなされたのだが、それだけでなく、必要であれば五菱銀行からの融資も約束を取り付けることが出来た。
この融資計画については、五菱銀行内で異論もあったのだが、山崎弥太郎が、五菱評定で東京メディシンの事業計画や、驚くべき人材活用などを説明し、五菱グループとして全面支援していくことを改めて提案したことにより、東京メディシンへの融資は、担保物件より事業の将来性を評価すると云う方向へ変わった。
また、曲がりなりにも新設の老人ホームの用地建物が担保物件としてあるので、金融庁からの指導を受けることは無いだろうと云う結論になったのだった。
それでも、拓馬としては、山崎代表や五菱グループに迷惑をかけることは出来ないし、倍に増員された東京メディシンの社員たちの生活のためにも早く結果を出せるようにと事業を速めたのだった。
社会福祉施設からの収益としては、非営利法人である社会福祉施設から利益の配当と云う事はない。
しかし、用地、建物の賃貸料の他に、老人用や障碍者用の各種機器から入浴設備といった物まで一手に納品が出来、その後の維持メンテナンスの収益も見込める。
施設側にとっても、初期費用負担がほぼ無いに等しく、国や自治体からの補助金や融資制度の活用と比較してもメリットが大きいように配慮した。
また、国や自治体の補助金を受けるとなると様々な規制を受けることになり、それらの規制をクリヤするだけで、それ以上の独自性を発揮できる余力がなくなると云うデメリットもあるため、いずれ施設へ派遣されるプロジェクトのメンバーにも大変好評であった。
人材活用の面からも、東京メディシン内だけでなく広域に人材交流が可能となり、従来より有能な人材発掘の機会が増えるメリットがある。
さらに、社会福祉施設を設立することで、東京メディシンが営利事業だけではないと云う社会的評価も高まることは確実であり、東京メディシンの将来性においても大きなメリットとなったのだった。
薬局の開業支援についても、開業後の医薬品等の納入について、有利な立場を確保できるのでメリットは大きい。
開業後も、経営支援、顧客開拓、情報提供などのケアを続けていけば、継続的なWIN WINの関係が見込める。
実際、薬局開業支援の第一号となった件の従業員店長は、その後、全国的な薬局のチェーン展開に成功し、東京メディシンに大きな利益をもたらした。
開業資金については勿論のこと、その後の事業拡大のための資金についても相談に乗り、五菱銀行からの融資を取り付けたのは言うまでもない。
その後、薬局開業は東京メディシンという評価が定着し、営業課係長だった荒木は、部長待遇のスーパーバイザーとして、全国を駆け回ることになるのだが、この第一号と言える開業支援で拓馬から開業のイロハを叩きこまれたのだった。
そのため、荒木の拓馬にたいする傾倒は尋常ならざるものがあり、拓馬は、自分を教祖のごとく
数年後には、東京メディシンは自力での資金調達も可能となり、もはや、竹田製薬工業の子会社でも五菱商事の子会社でもなく、独立を果たした。
やがて、山科グループの一角を占める企業に成長していったのである。
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作品を読んでいただきありがとうございます。
そろそろ「第1話 失恋」の回収をしたいと考えています。