第111話 二度目の歴史~榊清丸
文字数 2,117文字
---- 拓馬と栞が白木蓮の丘の麓に住み始めた頃 ----
拓馬と栞が住む集落のはずれに荒れ果てた廃寺があった。
そこは、年寄や病人それに親がいないか、棄てられた子らの住処であった。
彼らは、わずかな食料を求めて村人の手伝いをしたり、野草や川魚を獲っては飢えを凌ぎ、ようやく生きながらえていたのだ。
拓馬と栞が病人や年寄、それに幼い子らを放っとけるはずはなく、彼らを救うことが拓馬たちが最初にしたことであった。
拓馬は、まず、庵に隣接して孤児や老人、病人たちのための住居を建て、養生所と名付けた。
養生所内では、寝泊りだけではなく病人の治療や子どもたちには読み書き、剣術などを教えたりしたのだが、やがて養生所に暮らす者ばかりでなく集落に住む人間すべてを対象としていったのだった。
その住居には、京の貴族でも贅沢とされていた風呂も併設した。
拓馬と栞は手分けして彼らを風呂に入れ、衛生状態の改善を図った。
まず、わらを束子 のように束ねた物に木灰やわらの灰汁 を浸して体を洗ってやるのだが、そのとき虱 や蚤 といった寄生昆虫を卵まで駆除したのだった。
また、京の薬師の薬と称して皮膚病には塗り薬を塗布し、体内に寄生虫を持つ者には虫下しを飲ませた。
こうやって棄民の中の棄民ともいうべき者たちの衛生状態は格段に改善されたのだった。
食料も京からと言って大量に運び込み支給したので、栄養状態も急速に改善されていった。
だが、いつまでも施しを与えるだけではいけないので丘の中腹に湧水を作り、棚田や品種改良された作物をまずは住んでいる集落に普及させ、勢力地の拡大とともに山崎一帯へと広めたのだった。
拓馬は、定期的に動物を狩っていたが、村人の中にも狩人を育成し、獣肉食や山羊 の乳飲を勧めたので、やがて山崎の民の体格体力は、他所に比べて明らかに向上し、拓馬が率いる山崎軍の精強さに繋がっていくのだった。
まだ山崎軍が誕生する前だが、養生所に清丸という利発で子供たちのリーダーを務めていた少年がいた。
歳は十一といったその子は、まず心根がよく、読み書き剣術全てにおいて抜きんでた才能を見せ、拓馬と栞は特に目をかけていたのだった。
その子がある日拓馬と栞に、
「殿様、殿様にはご家来が一人もいないんだな。母君様にも女房(女官)の一人もいねえ。よかったら俺が一番の家来になってやろうか?」
と、尋ねたのだった。
拓馬と栞は、二人だけでも何の不自由もないので特に気にもしていなかったが、少年にとっては都の尊い身分の二人に誰も仕える者がいないということが不思議だったのだろう。
大人たちは不思議に思っても何か訳があるのだろうと口にしなかったのだが、子どもは正直だ。
拓馬と栞も、そろそろ仕える者を置く必要があるなと考えていたところであり、清丸を含め養生所の者たちは皆、拓馬たちに強い恩義と忠誠心を持っているので、彼らを召し抱えることに躊躇はなかった。
身分や出自さらに年齢さえも拓馬たちにとっては何の問題もないことであり、当初から集落内で信用が出来る者であれば召し抱えるつもりだったのだ。
そこで拓馬は、
「そうだな、それでは清丸には俺の一番の家来になってもらおうかな」
と、答えると、清丸は、
「それじゃあ、俺は殿様の家来で侍だな。だったら苗字を付けてくれないか」
と、言ったのだった。
すると、今度は栞が、
「・・それでは、榊はどうかしら? 清丸は毎月、一日と十五日は必ず、そして五日、十日、二十日、二十五日と五日置きに榊を持って来てくれるでしょう」
「それがいい。榊清丸 どうだそれでいいか」
「ああ、いいよ。榊は神様の木なんだろう。縁起がいいし、俺嬉しいよ」
山崎家の筆頭家臣が誕生した瞬間だった。
ちなみに、拓馬は、この時代に転生した時、抗うことの出来ない大きな力を感じたのだが、それが何か分からないまま、二条天皇から天照大御神のお使いではないかと言われたのだった。
そのため、神棚を作り天照大御神を祀っていたのだが、庵の近くで榊を採っていたところ清丸から何をしているのかと問われ、神棚に供える榊を採っているのだと答えると、清丸は自分からその役目を買って出たのだ。
史実では、神棚は江戸中期に登場するのであるが、庵の中だけで祀るものであり、他に見せなければこのくらいの変更は許されるだろうし、清丸を始め村人は、信じられないような恩恵をもたらしてくれた大恩人であり、尊い身分である拓馬たちのことをあまり人に言いふらしてはいけないと戒め合っていたので内部の実情が他に漏れることを心配する必要もあまりなかったのである。
そのような村人たちの気持ちは、拓馬たちが能力でそう仕向けたのではなく、村人たちの自発的な意志であった。
それから数年後、榊清丸は四人の男の子を家来にしてくれと拓馬の元へ連れてきた。
四人の男の子は、いずれも幼い時から清丸が弟のように面倒を見ていた子どもたちだった。
四人の男の子たちの名前は、「良丸」「平丸」「簾丸」「道丸」と言った。
拓馬は、それぞれに「豊川」「荘田」「近藤」「末延」という苗字を与えた。
後に、山崎四天王と呼ばれる四家の誕生だった。
拓馬と栞が住む集落のはずれに荒れ果てた廃寺があった。
そこは、年寄や病人それに親がいないか、棄てられた子らの住処であった。
彼らは、わずかな食料を求めて村人の手伝いをしたり、野草や川魚を獲っては飢えを凌ぎ、ようやく生きながらえていたのだ。
拓馬と栞が病人や年寄、それに幼い子らを放っとけるはずはなく、彼らを救うことが拓馬たちが最初にしたことであった。
拓馬は、まず、庵に隣接して孤児や老人、病人たちのための住居を建て、養生所と名付けた。
養生所内では、寝泊りだけではなく病人の治療や子どもたちには読み書き、剣術などを教えたりしたのだが、やがて養生所に暮らす者ばかりでなく集落に住む人間すべてを対象としていったのだった。
その住居には、京の貴族でも贅沢とされていた風呂も併設した。
拓馬と栞は手分けして彼らを風呂に入れ、衛生状態の改善を図った。
まず、わらを
また、京の薬師の薬と称して皮膚病には塗り薬を塗布し、体内に寄生虫を持つ者には虫下しを飲ませた。
こうやって棄民の中の棄民ともいうべき者たちの衛生状態は格段に改善されたのだった。
食料も京からと言って大量に運び込み支給したので、栄養状態も急速に改善されていった。
だが、いつまでも施しを与えるだけではいけないので丘の中腹に湧水を作り、棚田や品種改良された作物をまずは住んでいる集落に普及させ、勢力地の拡大とともに山崎一帯へと広めたのだった。
拓馬は、定期的に動物を狩っていたが、村人の中にも狩人を育成し、獣肉食や
まだ山崎軍が誕生する前だが、養生所に清丸という利発で子供たちのリーダーを務めていた少年がいた。
歳は十一といったその子は、まず心根がよく、読み書き剣術全てにおいて抜きんでた才能を見せ、拓馬と栞は特に目をかけていたのだった。
その子がある日拓馬と栞に、
「殿様、殿様にはご家来が一人もいないんだな。母君様にも女房(女官)の一人もいねえ。よかったら俺が一番の家来になってやろうか?」
と、尋ねたのだった。
拓馬と栞は、二人だけでも何の不自由もないので特に気にもしていなかったが、少年にとっては都の尊い身分の二人に誰も仕える者がいないということが不思議だったのだろう。
大人たちは不思議に思っても何か訳があるのだろうと口にしなかったのだが、子どもは正直だ。
拓馬と栞も、そろそろ仕える者を置く必要があるなと考えていたところであり、清丸を含め養生所の者たちは皆、拓馬たちに強い恩義と忠誠心を持っているので、彼らを召し抱えることに躊躇はなかった。
身分や出自さらに年齢さえも拓馬たちにとっては何の問題もないことであり、当初から集落内で信用が出来る者であれば召し抱えるつもりだったのだ。
そこで拓馬は、
「そうだな、それでは清丸には俺の一番の家来になってもらおうかな」
と、答えると、清丸は、
「それじゃあ、俺は殿様の家来で侍だな。だったら苗字を付けてくれないか」
と、言ったのだった。
すると、今度は栞が、
「・・それでは、榊はどうかしら? 清丸は毎月、一日と十五日は必ず、そして五日、十日、二十日、二十五日と五日置きに榊を持って来てくれるでしょう」
「それがいい。榊清丸 どうだそれでいいか」
「ああ、いいよ。榊は神様の木なんだろう。縁起がいいし、俺嬉しいよ」
山崎家の筆頭家臣が誕生した瞬間だった。
ちなみに、拓馬は、この時代に転生した時、抗うことの出来ない大きな力を感じたのだが、それが何か分からないまま、二条天皇から天照大御神のお使いではないかと言われたのだった。
そのため、神棚を作り天照大御神を祀っていたのだが、庵の近くで榊を採っていたところ清丸から何をしているのかと問われ、神棚に供える榊を採っているのだと答えると、清丸は自分からその役目を買って出たのだ。
史実では、神棚は江戸中期に登場するのであるが、庵の中だけで祀るものであり、他に見せなければこのくらいの変更は許されるだろうし、清丸を始め村人は、信じられないような恩恵をもたらしてくれた大恩人であり、尊い身分である拓馬たちのことをあまり人に言いふらしてはいけないと戒め合っていたので内部の実情が他に漏れることを心配する必要もあまりなかったのである。
そのような村人たちの気持ちは、拓馬たちが能力でそう仕向けたのではなく、村人たちの自発的な意志であった。
それから数年後、榊清丸は四人の男の子を家来にしてくれと拓馬の元へ連れてきた。
四人の男の子は、いずれも幼い時から清丸が弟のように面倒を見ていた子どもたちだった。
四人の男の子たちの名前は、「良丸」「平丸」「簾丸」「道丸」と言った。
拓馬は、それぞれに「豊川」「荘田」「近藤」「末延」という苗字を与えた。
後に、山崎四天王と呼ばれる四家の誕生だった。