第36話 竹田製薬工業の再生~新プロジェクト
文字数 1,964文字
五菱重工本社ビルに、新プロジェクトのためのかなり広い部屋が、目立たない階に用意された。
会社の中には、常に幾つかのプロジェクトが進行しており、そのための部屋が、あちこちにあったので、特に注目されることも無かった。
そこには、スタッフとして各部署の中堅からベテランと言われる人材が集められた。
五菱グループの各企業からも、必要に応じて、人事、経理、法務、企画、広報、営業、総務、システムエンジニア、さらに建設スタッフ、施設管理スタッフなどありとあらゆる分野から、エキスパートと言われる人材が投入された。
吉岡幹一の子息孝太郎も、五菱商事営業部営業課医薬品担当に籍を置きながら、頻繁に出入りするようになった。
さらに、それに合わせるように会社では見かけなかった人間も出入りするようになったが、他のグループ企業からの派遣だろうと思われて、特に注目されることはなかった。
会社への出入りは、全ての出入り口で厳しくチェックされるので、不審者の心配は、ほぼ無いからだ。
IDカードも全部署で採用されており、新プロジェクトのための部屋の出入りもIDカードが必要であった。
この新プロジェクトは、医薬品に関する新規事業立ち上げのものであるということになっており、事実その通りだが、このプロジェクトを知る者はごく僅かであった。
他のグループ企業からの派遣だろうと思われた者たちは、契約社員として採用されていた。
しかし、その待遇は、竹田製薬工業の社員と全く変わらなかった。
彼らは全員、竹田製薬工業で生え抜きの社長派と目されていた者で、会社を不本意に辞めざるを得なかった者たちだった。
だが、竹田製薬工業を辞めた者であっても、全員が採用された訳ではない。
すでに、新天地で生活の基盤を築いている者は当然だが、事前の調査で採用されなかった者もいた。
彼らの採用については、プロジェクトの人事担当者だけでなく、近藤らの意見も重視された。
近藤康平のグループは、『生え抜きの社長派』ではなく、『武闘派』と自らを呼ぶことにした。
この『武闘派』は、高田裕次や里帆、そして新たに加わった生え抜きの社長派を含めて、計画が最後の詰めを迎えた10年後には、100名近くになっていた。
また、抗争派閥を『敵対派閥』と呼ぶことにした。
しかし、これだけの規模になっても、組織の活動は一人の脱落者も、また敵対勢力に通じる者もなく続けられた。
これは、近藤康平のリーダーシップだけでなく、高田里帆の卓越した人事管理能力に依るところが大きかった。
11年後、里帆は、新生竹田製薬工業で、初の女性部長として、人事部長を見事に務めたのだった。
数か月後には、この新プロジェクトが、新生竹田製薬工業へと進化する工程が出来上がった。
また、新生竹田製薬工業の稼働計画についても、新薬開発の体制を初めとして、会社の間接部門、工場の生産システムまで細部に渡ってほぼ出来上がり、その後随時変更が加えられた。
現時点での竹田製薬工業の人員は、生産工場まで含めて3,000人ほどである。
このうち、生え抜きの社長派が3割、寄らば大樹の陰的社長派が2割、中立派という日和見的人間が1割、敵対派閥は、A派閥1割、B派閥1割、C派閥1割、D派閥1割である。
11年後の新生竹田製薬工業の稼働当初の人員計画は、生え抜きの社長派を中心として、1,000人を切る程度だ。
現時点の三分の一以下になるが、大正の初めに初代社長である竹田長衛が、会社組織としてスタートした時は、下男下女まで含めて60名ほどであったのだ。
新生竹田製薬工業の当初の構成員となった人間は、皆、意気軒昂で希望に溢れ、後の竹田製薬工業大発展の礎を築くのであった。
山崎弥太郎は、プロジェクトの進展に合わせるように、幾つかの問題について指示をし、その対策に余念が無かった。
資金対策、マスコミ対策、予想される裁判対策などが、着実に打たれていった。
中でも、新法律の制定については、敵対する派閥を除外するうえで最も有効となるものであり、弥太郎自身が自ら動いたのだった。
新プロジェクトのための部屋には、スタッフの他にも近藤らの武闘派をはじめ、弁護士、公認会計士、法律家、マスコミ、経済評論家、政治家、関係省庁の役人、元裁判官、元検事、元警察官などまでもが出入りするようになった。
山崎社長や豊川副社長も度々顔を出した。
社長室や副社長室、それに主要取締役の執務室がある階から新プロジェクトのための部屋までは、直接通じる廊下があり、人に見られることは滅多に無かった。
最終決戦を迎えるための息の長い準備は、静かに着々と進められていった。
会社の中には、常に幾つかのプロジェクトが進行しており、そのための部屋が、あちこちにあったので、特に注目されることも無かった。
そこには、スタッフとして各部署の中堅からベテランと言われる人材が集められた。
五菱グループの各企業からも、必要に応じて、人事、経理、法務、企画、広報、営業、総務、システムエンジニア、さらに建設スタッフ、施設管理スタッフなどありとあらゆる分野から、エキスパートと言われる人材が投入された。
吉岡幹一の子息孝太郎も、五菱商事営業部営業課医薬品担当に籍を置きながら、頻繁に出入りするようになった。
さらに、それに合わせるように会社では見かけなかった人間も出入りするようになったが、他のグループ企業からの派遣だろうと思われて、特に注目されることはなかった。
会社への出入りは、全ての出入り口で厳しくチェックされるので、不審者の心配は、ほぼ無いからだ。
IDカードも全部署で採用されており、新プロジェクトのための部屋の出入りもIDカードが必要であった。
この新プロジェクトは、医薬品に関する新規事業立ち上げのものであるということになっており、事実その通りだが、このプロジェクトを知る者はごく僅かであった。
他のグループ企業からの派遣だろうと思われた者たちは、契約社員として採用されていた。
しかし、その待遇は、竹田製薬工業の社員と全く変わらなかった。
彼らは全員、竹田製薬工業で生え抜きの社長派と目されていた者で、会社を不本意に辞めざるを得なかった者たちだった。
だが、竹田製薬工業を辞めた者であっても、全員が採用された訳ではない。
すでに、新天地で生活の基盤を築いている者は当然だが、事前の調査で採用されなかった者もいた。
彼らの採用については、プロジェクトの人事担当者だけでなく、近藤らの意見も重視された。
近藤康平のグループは、『生え抜きの社長派』ではなく、『武闘派』と自らを呼ぶことにした。
この『武闘派』は、高田裕次や里帆、そして新たに加わった生え抜きの社長派を含めて、計画が最後の詰めを迎えた10年後には、100名近くになっていた。
また、抗争派閥を『敵対派閥』と呼ぶことにした。
しかし、これだけの規模になっても、組織の活動は一人の脱落者も、また敵対勢力に通じる者もなく続けられた。
これは、近藤康平のリーダーシップだけでなく、高田里帆の卓越した人事管理能力に依るところが大きかった。
11年後、里帆は、新生竹田製薬工業で、初の女性部長として、人事部長を見事に務めたのだった。
数か月後には、この新プロジェクトが、新生竹田製薬工業へと進化する工程が出来上がった。
また、新生竹田製薬工業の稼働計画についても、新薬開発の体制を初めとして、会社の間接部門、工場の生産システムまで細部に渡ってほぼ出来上がり、その後随時変更が加えられた。
現時点での竹田製薬工業の人員は、生産工場まで含めて3,000人ほどである。
このうち、生え抜きの社長派が3割、寄らば大樹の陰的社長派が2割、中立派という日和見的人間が1割、敵対派閥は、A派閥1割、B派閥1割、C派閥1割、D派閥1割である。
11年後の新生竹田製薬工業の稼働当初の人員計画は、生え抜きの社長派を中心として、1,000人を切る程度だ。
現時点の三分の一以下になるが、大正の初めに初代社長である竹田長衛が、会社組織としてスタートした時は、下男下女まで含めて60名ほどであったのだ。
新生竹田製薬工業の当初の構成員となった人間は、皆、意気軒昂で希望に溢れ、後の竹田製薬工業大発展の礎を築くのであった。
山崎弥太郎は、プロジェクトの進展に合わせるように、幾つかの問題について指示をし、その対策に余念が無かった。
資金対策、マスコミ対策、予想される裁判対策などが、着実に打たれていった。
中でも、新法律の制定については、敵対する派閥を除外するうえで最も有効となるものであり、弥太郎自身が自ら動いたのだった。
新プロジェクトのための部屋には、スタッフの他にも近藤らの武闘派をはじめ、弁護士、公認会計士、法律家、マスコミ、経済評論家、政治家、関係省庁の役人、元裁判官、元検事、元警察官などまでもが出入りするようになった。
山崎社長や豊川副社長も度々顔を出した。
社長室や副社長室、それに主要取締役の執務室がある階から新プロジェクトのための部屋までは、直接通じる廊下があり、人に見られることは滅多に無かった。
最終決戦を迎えるための息の長い準備は、静かに着々と進められていった。