第82話  遥~夫の挫折

文字数 1,674文字

 秋元は、フランスへの赴任は、左遷と受け止めていた。
 赴任から帰ってきても、チームには新しいチーフがいるため、そのまま以前のチームチーフに戻れるかは保証が無かったからだ。
 だが、心機一転デザイナーとしての新境地を開くには確かに良い機会だと思い直すことにした。

 それに、妻の遥は、夫がその有能さを認められてフランスに赴任するものと当然理解した。
 毎週のフランス語教室にも熱心に通い、自宅でも暇さえあれば、フレーズを何度でもリピートしていた。
 教室が終われば、五菱自動車社員の妻たちとの食事会でも中心になっているようだ。
 遥には、詳しい内容を話す訳にはいかなかった。
 秋元は、赴任の時期を心待ちにするようになっていた。

 ところが、年末ごろから武漢肺炎の爆発的感染が起きたのだ。
 2020年4月には、政府は、非常事態宣言を出し、秋元の赴任も無期限延期になったのだった。
 会社は、秋元の処遇に困ることになった。
 この頃には、会社も秋元のデザインの才能には疑問符を付けるようになっていた。
 新しいチーフもすでに決まっていた。
 
 秋元は、五菱自動車直営のディーラーに出向が決まった。
 五菱自動車としては、直に顧客の好みを理解し、把握してほしいという狙いだった。
 営業での外廻りは、武漢肺炎のため、自粛しているのもあったが、秋元は、来客の対応を専門に行うことになった。
 給与は下がるが、減額分は五菱自動車が負担することになった。
 秋元も承知のうえで直営ディーラーに出向したのだった。

 だが、来客の対応で秋元は、来客の意向を無視するかのように自己のデザインを薦めた。
 店長は、その都度、秋元に注意をした。
 秋元は、注意をされると、しばらくは自重するが、やがて元の木阿弥を繰り返すのだった。
 一年後、秋元の販売成績は、当初から低迷したまま変わらず、店内でも孤立し、もはや居場所が無くなっていた。

 直営ディーラーの店長は、秋元の異動を五菱自動車に具申した。
 内容は、秋元のようにデザインの高い実績を持つ人は、当社ではなく、もっとふさわしい場所で実力を発揮すべきだと云うものであったが、(てい)の良い追い出しだった。

 五菱自動車は、人事課長をディーラーに派遣し、秋元との面接を行った。
 秋元には、もはや一年前の面影は無かった。
 秋元は、そのころ何もかもうまくいかないことに自棄(やけ)になっていたのだ。
 毎日、酒を飲み、自堕落な生活を送っていた。
 仕事が終われば、パチンコに入り浸り、遥には残業だと嘘を吐いた。
 遥と結婚した頃は控えていた女遊びも再開していた。
 
 武漢肺炎は、日本ではほぼ終息したのだが、世界ではまだ蔓延しており、アフリカではいまだに収束の気配が無かった。
 かつて、アフリカに多くの植民地を持っていたフランスは、アフリカとの往来を完全に断つことが難しく、武漢肺炎の脅威は完全に去っていなかった。
 秋元のフランス赴任の話も目途が立たない状況だった。

 秋元の新しい職場は、自動車の組み立て工場だった。
 仕事中は、人と会話をしなくて良いと云うのが、秋元の理由であり希望でもあったからだ。
 しかし、秋元にふさわしい課長職が無く、課長待遇の特別職として生産ラインの各種検査を行う業務に就いた。
 
 給与は、若干下がるが、会社は、チーフ時代と同じ給与を3年間保証することにした。
 さらに、その間に評価できるデザインを設計すれば、デザイン課にチーフは別としても課長職として復帰させることも約束された。
 工場内には、各種設計ができる部屋があり、終業後は自由に使用することも出来ることになった。
 フランスにも時期を見て改めて赴任することが決まった。
 ただし、3年の間に成果を出さなければ、フランスへの赴任も本社への復帰もご破算になり、白紙に戻ると云うことだった。

 秋元は、工場に異動になった当初こそ終業後、設計室に籠ることが多かったが、何ら成果を出せず、やがて、元の自堕落な生活に戻っていった。
 もはや、秋元は、自分にはデザインの才能が無いことを、はっきりと自覚するしか無かったのだった。
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