第34話  吉岡美保

文字数 5,267文字

 夫の吉岡幹一と初めて会ったのは、年末の大学合同ダンス会だった。
 都内のホテルで、数校の大学が合同でダンス会を開いたのだ。
 昭和37年の12月だった。
 私は、20才、女子短大の2年生だった。
 大学の寮に住んでいた私は、同室の女の子に誘われてこのダンス会に参加した。

 3年前には、皇太子殿下と正田美智子様がご結婚なされ、ミッチーブームが起きていた。
 同室の女の子の名も美智子で同名だったので、彼女の皇太子妃殿下への思い入れはひときわ強く、1年生の時は、盛んにテニス部へ一緒に入部しようと誘われた。
 皇太子殿下と妃殿下の出会いが、テニスコートだったのでテニスを始める人が多かったのだ。

 でも、私はそれを断って毎日、大学と寮の往復で大学生活を終えたような気がする。
 私の家は決して楽ではなかったし、妹がいたけど、大学に行かせてもらったのは私だけだった。
 年子の妹まで、二人続けて大学にやる経済的な余裕は我が家には無かった。
 私が、2年生に進級した時、妹は高校を卒業して就職した。
 妹は、給料を全額母に渡していた。
 私は、両親にも妹にも申し訳なく、美智子と一緒に遊びに行くことも殆ど無かった。

 ダンス会にも行くつもりは無かったけど、当日のみ寮の門限が9時から11時への変更が発表されると、寮住まいの全員が参加しようと云うことになり、美智子に引っ張られるようにダンス会場まで行った。

 美智子は、こんな私でも、いつも一緒にいてくれたので本当に感謝しているし、結婚して遠く離れた今でも親友だ。
 短大に入学した最初の頃、私は戸惑うことばかりだった。
 お昼ご飯も一人だったので、寂しいより悲しかったけど、誰かに声を掛ける勇気は無かった。
 そんな私に、「 一緒に食べよう! 」と、元気に声を掛けてくれたのが美智子だった。

 私は、ダンスなど全くしたことは無かった。
 服も、他の参加した女子に比べると地味で、気おくれがしてしまっていた。
 私は、ダンス会に来たことを後悔しながら、誰からも声を掛けられませんように、誰からも気付かれずに終わりますように、と壁の花になって祈っていた。
 その時、

 「踊らないんですか?」

 「えっ?・・ああ、いえ、踊れないんです・・・」

 もう、後は何を話しているのかさえよく分からなかった。
 ただ、あの人の笑顔が、とても印象に残った。
 昭和37年、あの頃は現在とは全く違う。
 時々昔を思い出すと、これが同じ日本かと思うことがある。
 男性に対しては、年下でも、さん付けで呼んでいた。

 あの人の名前は、吉岡幹一22才、都内の有名私大の4年生だった。
 私は、困惑した頭でも一生懸命に彼の話を聞いて記憶しようとした。
 彼は、苦学生だった。
 土佐の出身で、あの五菱財閥の山崎小弥太総帥のもとで書生をしているとのことだった。
 彼もダンスはしたことがなかったが、お(かみ)から遊んで来いと言われて、ダンス会場に来たものの手持無沙汰で暇を持て余していたそうだ。

 だから、私に声を掛けたのね。
 暇だから、仕方なく声を掛けたと思われるようなことを正直に言わなくてもいいのに、とも
思ったけど、私は彼に声を掛けられたのが、とても嬉しかった。
 さっきまで、あんなに時間が経つのを遅く感じていたのに、あっという間に寮に帰る時間になった。

 でも、今みたいにスマホなんかは無かったし、電話が無かった家も多かった時代だから、無料通話のOLINE交換なんて出来る訳も無く、そのまま彼とは別れた。
 私は、まるで12時の鐘とともに魔法が切れるシンデレラのようだと思った。
 幻想だと思いながら、いつかまた彼に会える日が来ないかと、淡い期待を持ったりもしたが、在学中にそんな日は来なかった。
 まさか、山崎邸に電話するなど出来るはずも無かった。

 私の寮にも電話はあったが、男性からの電話は、家族以外は取り次いではくれないので、彼から電話は無かったし、教えることもしなかった。
 また、手紙も家族以外の男性からの場合は、舎監が女生徒の実家へ転送していた。
 私の実家の電話番号と住所を教えておけばよかったと後悔したが、私があの時、それを思いついても自分から言えるはずも無かった。
 後から分かったのだけど、彼も同じことを後で気付いて後悔した、と聞いた時は嬉しかった。

 私は、短大卒業後、地元の茨城県東取手市に帰り、機械部品を作っている町工場に事務職で就職した。
 この頃は、彼のことは忘れていなかったけれど、もう半分ぐらいは諦めていた。
 工場で作っている機械部品の一部は、五菱重工に納められていた。
 孫請けのような立ち位置だった。

 その日私は、経理の伝票に工場長の印鑑をもらうため工場に出ていた。
 そこへ彼がやって来たのだ。
 最初は逆光で良く分からなかったけど、工場の中に入って来た彼は、間違いなく幹一さんだった。
 彼は、五菱重工に就職し、営業部に配属されたそうだ。
 この日は、取引先のクレーム対応のため、私の勤める工場に相談に来たと云うことだった。
 彼と工場長の話が終わった時、丁度昼休みになった。
 私がいる事務所に彼が入って来た。

 「美保さん、ここにいたんですか。お久しぶりです。よかったら、昼食一緒にどうですか」

 私は、二つ返事で彼と一緒にお昼ご飯に行った。

 二年半後、私たちは結婚した。
 新居は、私の実家の近くだった。
 これには、私よりも両親の方が喜んだ。

 結婚したら、子どもはすぐに出来るものと思っていたけど、なかなか授からなかった。
 少し焦り出した頃、妊娠した。
 産まれたのが、長男の孝太郎だった。
 それから5年後、長女が産まれた。
 幹一さんが、保子と名付けた。
 本当は、子どもは4人ぐらい欲しいねと、幹一さんと話していたけど、その後、子供は出来なかった。

 幹一さんは、優しいけど、基本的には超亭主関白だった。
 関東の女は開けている人が多いと思う。
 私は、時々内心で幹一さんに、

 (あなたは、江戸時代の人ですか?)

 と、突っ込みを入れていたけど、口には出さなかった。

 幹一さんも、内心は自覚していたようで自分で直そうとはしていたけど、土佐人とはそう云うものなのか最後まであまり変わらなかった。
 亭主関白でない幹一さんを見てみたかったけど、私も亭主関白でない幹一さんを想像することが出来なかった。
 長年夫婦をしていると慣れてしまうものなんだなと思った。

 子どもたちは順調に成長した。
 孝太郎が思春期を迎え、幹一さんと険悪になった時期もあったけど、大学生になった頃は、憑き物が下りたように孝太郎は穏やかになった。
 保子は、しっかりしすぎて、幹一さんが何とか関わりたくて色々話しかけても無視されるか、怒られて、その度に幹一さんは落ち込んでいた。

 でも、あの時は、幹一さんの仕事に対する別の面を見て驚いた。
 切っ掛けは、孝太郎の高校からの親友の高田裕次君の結婚だった。
 裕次君は好青年で、彼が会費制で結婚することになり、孝太郎が代表世話人になったのだ。

 孝太郎は、大学卒業後、五菱商事の国内商事部門と云うところで働いていた。
 裕次君は、大手製薬会社で研究開発に携わっていると聞いた。
 お相手のお嬢さんは、同じ会社の総務にいる井上里帆さんと云う愛らしい女性だった。

 その頃、娘の保子は、関西の大学に入っていて家にいなかったし、息子も毎日仕事で幹一さんより遅く帰宅していた。
 それで、私と幹一さんは、夜は二人でお茶を飲みながらリビングで話すのが習慣になっていた。
 でも、その日、幹一さんは、一言も話さず考え込んでいた。
 こんな時は、何か仕事で問題があった時だ。
 私も黙って、幹一さんがお茶を飲み干したら、お代わりを注ごうかなと思っていた。

 孝太郎が持ってきた結婚披露宴の席順表を見ながら、幹一さんが初めて言葉を発した。

 「孝太郎、この会社は・・・」

 幹一さんは、幾つか孝太郎に尋ねていたけど、その後は、いつものように親子団欒になった。
 だけど、私は何かあると確信した。

 翌日、私は、孝太郎と一緒に竹田製薬工業再生の新プロジェクト計画を幹一さんから聞いた。
 幹一さんは、家では仕事の話をしないのに、とても詳しく説明してくれて、私にも孝太郎にも協力をよろしく頼むと頭を下げられた。
 あんなことは初めてで本当に驚いた。
 でも、身の引き締まる思いだった。
 いえ、本当に引き締まった。
 あんな感覚も初めてだった。

 新プロジェクトは、新社長の弥太郎氏が自ら先頭に立って作成したもので、五菱評定で正式に認められたものだそうだ。
 五菱評定が、本当にあることもその時知った。

 それに計画は、10年もの期間を要するようなもので、私からすれば空を掴むような話だった。
 それに幹一さんは、豊川副社長の補助的立場と云うことだけど、話の流れからは実質的な実働部隊の責任者のように思えた。

 後10年すれば、幹一さんは63才だ。
 26年前だから引退してもおかしくない年だった。
 私は、幹一さんのことが心配だった。

 私の決意は、皆とは少し違っていたと思う。
 私は、幹一さんが、健康で気持ちよく仕事ができるようにいつも気を付けようと思った。
 いつも、そう思っていたのだけれど、この時は一層そう思った。

 もし、この計画が失敗したらとは考えたくなかったけれど、もし、失敗して幹一さんが責任を取ることになっても、私が支えてみせると決心をした。

 元々私の家は貧乏だったし、幹一さんの家も少ない田畑で食べていくのがやっとだったって幹一さんも言っていた。
 お上に拾ってもらわなかったら、今の自分はないともよく聞かされた。
 幹一さんは若い頃から、

 「弥太郎坊ちゃんはすごい。必ず、山崎家の復権を成し遂げるに違いない。
 それだけではなく、日本の経済界に無くてはならない人になるお方だ。
 俺は、坊ちゃんをお助けして、五菱と日本のために微力でも出来るだけの力を尽くしたい。
 それがお上への恩返しにもなる。
 これが出来れば本望、男の本懐だ。」

 と言っていた。
 私は、こんな時も内心で少しだけ、

 (あなたは、江戸時代の人ですからね)

 と思っていたのだが、もうそんな気持ちは無かった。
 幹一さんの願いは、私の願いになった。

 家に人が集まって、遅くまで打合せや検討会のようなものが頻繁に行われるようになった。
 竹田製薬工業の方たちも家に来られるようになった。
 私は、皆さんが気持ちよく打合せが出来るように、お夜食やお飲み物を丁度よい時間を見計らって出すようにした。

 時々、お話に混ざった。
 ただ聞くだけだったけど、時々幹一さんが資料を見ながら、自分の考えを皆さんに説明していた。
 私も、その資料を見せてもらったけど、どうしたら、そう云う結論になるのか分からなかった。
 でも幹一さんの考えは、いつも100%近く当たっていたと聞いて、私は誇らしかった。

 私にとって、嬉しいことが後一つあった。
 家に来られる中に紅一点の里帆ちゃんだ。
 彼女は、裕次君のお嫁さんになった。
 愛らしく人懐っこくて、最初に裕次君と来た時から私たちと打ち解けてくれた。

 男の人ばかりだったので、彼女の存在がとても助かった。
 一緒にお夜食を作ったり、洗い物を手伝ってくれたりで緊張の中でも楽しかったな。

 里帆ちゃんと云うか、高田家とは今でも親交が続いている。
 里帆ちゃん夫婦と孝太郎夫婦の子どもたちも仲がよく、これからも親交が続いていくだろう。
 嬉しいことだ。

 里帆ちゃんは、幹一さんに
 「おじ様、これは何ですか?」 「これは、どうしてでしょう?」
 とよく聞いていた。
 幹一さんは、
 「あの子はすごい。きっと竹田製薬工業に無くてはならない人になる」
 と言っていたけど、当の里帆ちゃんは、
 「おじ様の洞察力は凄すぎる」
 と言っていた。
 嬉しかったわね。

 でも、一番はやっぱり山崎代表の言葉だったわ。
 一年前、幹一さんは亡くなった。
 78才だった。
 通夜の席に最後までいらっしゃった山崎代表と豊川社長が、二人揃って私の前にお座りになった。

 「奥様、吉岡さんに私たちは甘えていました。特に私は、ご主人がいつも傍にいてくれるのが当たり前のようになっていました。
 もし、私たちが五菱重工に縛り付けていなかったら、ご主人はもっと能力を生かせていたでしょう。
 今になって後悔しています。本当に申し訳ありません」

 と、手をついて謝られた。
 私は、幹一さんが生前よく言っていた言葉を言った後、

 「主人は、最後に、
 『もうやり残したことは無い。お上にも褒めてもらえるだろう。弥太郎坊ちゃんが、お上の悲願を成し遂げられた。坊ちゃんの力にもなれたと思うよな。・・美保ありがとう・・待っている・・・』
 と申しました。
 主人は、皆さんにも感謝していました。
 こちらこそ、お礼を申し上げなければいけません。
 本当にありがとうございました」


 今日は、幹一さんの一周忌です。

 「母さーん、お坊さんが見えられたよー」

 「はーい」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み