第56話  闇の守護者~生誕

文字数 2,933文字

 「・・うーっ あーあーあ!・・・」

 榊直(さかきただす)は、この頃同じ夢をよく見て(うな)される。


 彼は、大正8年の生まれで、令和元年2,019年の現在100才だ。
 身体は頑健、幼い頃から聡明で近隣でも神童の名が高かった。
 生まれは土佐
 彼の父は、山崎本家のその当時の家業ともいえる貿易業で大番頭を務めていた榊清兵衛と言った。

 榊家は、平安朝の末期、京の都の郊外山崎の地に山崎家が(おこ)った時からの最も古い筆頭家臣と言われている。
 戦国時代、山崎家が、京から土佐の中村御所の一条家に仕えるために下向した時も主家と共に下向し、それ以降も変わらずに代々土佐山崎本家の重鎮であった。

 直は榊家の跡取りであるが、実子ではない。
 彼は、山崎本家の当主山崎直弥の嫡男であり長男であった。
 山崎直弥の父は、山崎直之進と言い、五菱財閥の創始者山崎弥太郎の長兄である。

 明治の御維新(ごいっしん)の時、山崎家当主であった直之進は、弥太郎が末弟であるにも関わらず、山崎家の家臣の中でも四天王と言われた豊川家、荘田家、近藤家、末延家の四家から特に優秀な者たちを選び、弥太郎の家臣として東京に随行させ、資金援助を行い、海外貿易を初め、国策に則った重化学工業を中心とした五菱財閥の創業と発展に尽力させたのだった。
 財閥名を五菱と名付けたのは、山崎家の家紋が「重ね五菱」であったからである。

 四天王と言われた四家の山崎家に対する忠誠心は、時代が移っても変わらず、戦後五菱財閥が解体された後も秘密裡に五菱評定を作り、山崎家の復権を図ったのである。

 また、この山崎家家臣の四天王と言われた四家の中でも豊川良平、荘田平五郎、近藤廉平、末延道成は、後に五菱財閥の四天王と呼ばれるようになる。
 因みに現五菱重工社長豊川良一は、豊川良平の直系子孫であり、五菱商事副社長の荘田平吾は荘田平五郎の直系子孫である。

 当時、直之進は妻に、

 「山崎の才は、全て弥太郎が持って行った。その上四天王まで持って行った。残ったのは榊だけだ。しかし、これは決められたことなのだ・・・」

 と、語ったと伝えられているが、この真意を理解した者はいなかった。

 榊家は、四天王の四家が有名なため、あまり知られていなかったが、実は、山崎家の筆頭家臣として四天王の四家を従え、代々山崎家の家宰として、優秀な人材を輩出していた。

 時は流れ、山崎本家の当主は、直之進の嫡男直弥が()いでいた。
 直之進も直弥も凡庸であり、正に山崎の才は、全て弥太郎が持って行ったのではないかと思われた。
 だが、直之進も直弥もそのようなことは全く気にしてはいなかった。

 大正8年1月1日、直弥に待望の男子が産まれた。
 男子誕生の報せを聞いた直弥は、喜びとともに憂いを含んだ表情となり、

 「やはり、そうだったか・・・」

 と、一人誰にも聞こえぬよう(つぶや)いた。

 その子は、(ただす)と名付けられた。
 直弥にとって意味は(ただす)であり、正常な状態にするということだが、直の字を当てたのは、山崎本家の当主に使われる名と云う事だけではなく、優しく実直で人望を集め、真っ直ぐで誠実な人間となることを願ってのことであり、我が子のこれからの過酷な人生を不憫に思う親心であった。

 直は産まれてすぐに大番頭である榊家に養子に出された。
 榊家は、代々山崎家に功績のある家であったが、この時の当主清兵衛は妻を亡くし、子も無かった。
 また再婚する気は全く無かったので、榊家は断絶するものと思われていた。
 それでも主家である山崎家が、本来家を嗣ぐべき嫡男を養子に出すと云う事は、やはり驚くべきことであった。

 当然、直弥の妻、澄は猛反対をした。
 江戸時代であれば、当主の決定に不服を申し立てることは許されなかっただろうが、時代は大正である。
 直弥は、当主以外入ることが禁じられていた蔵に妻を入れた。

 蔵から出て来た時の澄は、顔面蒼白で足取りも覚束なく自室へ戻って行った。
 その時から、養子の件で異議を申し立てることはなかったが、それから毎日、思い出しては涙を流すのだった。
 2年後次子が産まれ、その後も次々と子宝に恵まれたことから直のことを思い、涙することは少なくなったのだが、晩年となって死ぬまで時に触れ、直のことを思い出し、人知れず涙を流したのだった。

 直の養親清兵衛は、当時、山崎家の大番頭として貿易のため、台湾との往来を頻繁にしており、直の養育は、榊家の信頼できる昔からの女中や使用人に任せていたが、自宅は山崎本家に近く、直は度々山崎本家に遊びに出かけ、その度に直弥や澄の勧めで泊まることが多かった。

 山崎本家に行くと常に歓待を受けるので、幼い直は不思議に思いながらも、度々山崎本家を訪れていた。
 山崎本家には直よりも小さい子が何人もいて、皆がお兄ちゃんと慕ってくれるのも心地よかった。
 また、当主の直弥様や奥様の澄様からは、他の子たちと全く差別なく可愛がってもらうので、それが嬉しく、実の父母と知らないまま直弥と澄に会うのが楽しみだった。

 直は、実父直弥の願い通り、真っ直ぐで誠実な周りからも年齢を問わず、慕われるような(たくま)しく聡明で優しい青年となった。
 文武両道に優れ、中学時代から剣道、柔道では県内で並ぶ者がいなかった。
 実父直弥は、もし直が御維新の前に生まれていたら、五菱財閥の創設者は直ではなかったろうかと、詮無いこととは分かりながらも思うのであった。

 やがて直は、横浜にある帝都工業大学へ進学した。
 帝都工業大学は工学、化学に関して、東京帝国大学を凌ぐと言われ、国家に貢献する優秀な人材を輩出していた。
 旧制の学校制度では、大学卒業は通常23才であったが、直は優秀であったため中学、高校と飛び級を重ね21才で大学を卒業した。

 昭和15年、日米開戦の前年であった。
 直は、化学を専攻し、卒業後は五菱重工に就職が内定していた。
 このことを土佐の実家に報告したところ、直ぐに帰省するようにとの父清兵衛からの手紙が届き、これは山崎本家の当主である直弥様の意向であることが添えられていた。

 急遽、土佐に帰省した直を駅に迎えたのは、父の清兵衛のみならず山崎本家の当主直弥様と奥様の澄様、それに本当は直の弟である次期当主の直道様であった。

 直は、山崎本家で初めて、自分が直弥の嫡男であることを知らされた。
 その日、直は、山崎家当主しか入ることが許されない蔵へ入った。

 三ヶ月後、直は、甲種幹部候補生として豊橋陸軍予備士官学校に入校、一年間の訓練を経た後、陸軍中野学校に入校した。
 陸軍中野学校では、諜報、防諜、スパイ技術、ゲリラ戦、語学などの訓練を経て、南方戦線の各地を転戦することになるのだった。

 陸軍中野学校の訓練を終え、一度帰省し、戦地へ向かうため土佐を出立した日が、養父、実父、実母との今生の別れであった。

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 当作品をお読みいただきありがとうございます。
 第二幕に入り、新しい展開となります。
 主人公の拓馬に戻るまで、話数が、かなりかかりそうですが、よろしくお願いします。
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