第87話  弥一郎の想い人~初めての夜 お座敷遊び

文字数 2,015文字

 五菱商事社長の末延道夫と弥一郎の二人の座敷に、挨拶に入室したのは立方、地方の芸妓に舞妓総勢10名であった。
 挨拶の後、最も年長の芸妓が末延に、弥一郎には絢乃が付いた。

 絢乃は、凛とした佇まいの典型的な日本美人であった。
 また、二年間であるが、結婚生活の経験は、絢乃に大人の女の魅力を感じさせた。
 着物は春らしさを感じる上品な生地の付下げ、それによく合った色合い模様の帯、舞妓の花かんざしとは違うが、小振りでやはり春らしさを感じるかんざし、櫛や帯締めといった一つ一つの小物に至るまで十分に吟味されたその姿かたちと立ち居振る舞いは、一幅の絵を()るようであった。
 それでもその美しさは、一人主張するのではなく、周囲にさり気無く溶け込むような美しさであった。
 弥一郎は、絢乃の芸術的とも言える美しさに一目で魅了されてしまったのだった。

 末延と弥一郎は、食事をしながら彼女たちを交えて談話を楽しんだ。
 絢乃との会話は、穏やかなのに話に花が咲き、弥一郎は綾乃の酌で飲む酒の美味さにいつものペースよりも酒量が多くなっていることに気が付いていたのだが、絢乃の勧める酒を拒みたくなかった。
 頃合いで、お座付きには季節にふさわしい舞が披露され、弥一郎は、うっとりと絢乃の舞姿に見とれた。

 それから、また食事と談笑を少しして、さあ、これからお座敷遊びというとき、末延に会社からの緊急の電話が入った。
 電話に出るため席を外した末延が、座敷に戻って来ると、

 「弥一郎君すまない。これから監査役を交えて緊急の会議をする事態になった。僕は、これから社に戻るが、君は気にせず遊んで行ってくれ。絢乃、後のことは頼む」
 と言い、さらに、
 「絢乃の丸の家は、弥太郎さんや先代のお上、いや、初代弥太郎様の頃からの馴染みなんだ。悪いようにはしないから、気兼ねしないで任せるといい。皆も本当にすまない。これで僕は失敬するよ」
 と言うと、慌ただしく席を立ったのだった。

 財界の重鎮とも言うべき人物が去った後のお座敷は、重しが取れたようで、場の雰囲気が心なしか軽やかになったように感じられた。
 今夜の座敷の主人公は、五菱財閥を将来背負って立つだろう大学を出たばかりの若い男性である弥一郎一人であり、初めてのお座敷遊びなのだ。
 芸妓や舞妓たちは、気合を入れつつ、彼女たちの表情も一層浮き浮きと華やいだものとなった。

 弥一郎は、末延がいなくなったため若干の不安を感じたのだが、それは直ぐに霧散することとなった。
 芸妓や舞妓たちのもてなしは、プロそのものであり、中でも絢乃との会話は、弥一郎にとっては、最初の少しの緊張もすぐに忘れさせるものだった。

 金毘羅船船に始まったお座敷遊びは、彼女たちの盛り上げで、弥一郎はいつの間にか夢中になって楽しんでいた。
 それに、相手はいつも絢乃であったことも弥一郎を夢中にさせたのだった。

 金毘羅船船追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュの唄に合わせて、相手が、中央に置いたビール袴を取った時はグーを、取らない時はパーを出すゲームでは、最初の糸の音がゆっくりのときは良かったのだが、段々と早くなると弥一郎は絢乃に全く敵わなかった。

 弥一郎が、もう一度と絢乃に再戦を挑むと、次はとらとら(ジェスチャーでのじゃんけんゲーム)をしようと言う事になった。
 だが、この時点で弥一郎の酒量はかなり進んでいたため、これ以上酔わないようにとお婆さん(杖をつく)をしたのだが、絢乃には見抜かれており、絢乃の虎(よつんばい)に負けてしまった。
 ならばと、弥一郎が虎になると絢乃は和唐内(やりでつく)でやはり負けてしまう。
 とらとらは、その繰り返しだった。
 弥一郎は、酔っていたため、無意識に絢乃の真似をしてしまっていたのだった。

 次に座布団取り(イス取りゲーム)をしたのだが、これは弥一郎も座布団を取ったり取られたりであった。
 座布団の周りを回っている時、弥一郎の後ろにはいつも絢乃がいたので、取っても取れなくても絢乃と一緒に倒れることもあり、弥一郎は楽しくて仕方がなかった。

 その次は、また弥一郎と絢乃のじゃんけんとなった。
 二人の間に太鼓を置き、じゃんけんに負けた方が、その場で一回りして太鼓をたたくおまわりさんだ。
 絢乃は容赦がなく、弥一郎は何度も回るうちにすっかり酔いが回ってしまったのだった。

 弥一郎は、遊びの合間、上機嫌で酒を飲んだ。
 いつもの絢乃なら、お客の飲みすぎをほどほどで上手に止めるのだが、この夜は、弥一郎を止めようとはしなかった。
 それは、他の芸妓や舞妓も同じだった。
 誰もが、絢乃の弥一郎を見つめる目に女の情念を感じたからだった。
 彼女たちは、絢乃を応援するため場を一層盛り上げたのだった。

 その夜の座敷は、末延が規定の時間一杯の前口(まえくち)(予約)でかけていたので、彼女たちも時間を気にすることなく、大いに盛り上がった。
 弥一郎の記憶は、途中で途切れた。
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