第62話  闇の守護者~指図書

文字数 1,914文字

 ---- 昭和10年(1935年)のある日----

 土佐の山崎本家に勤める使用人たちは、緊張の中にあった。
 当主の直弥から、本日は、当主だけが入ることを許されている特別な蔵に、当主以外の人間が訪れるので、粗相が無いようにと告げられていたからだ。
 この蔵には、普段は、当主以外は入らないのだが、当主が認めた者だけは入ることを許されている。
 その当主も、日常的に入ることは無い。
 
 山崎家ではこの蔵に入ることを昔から『蔵入り』と呼んでいる。
 あえて普通の言い回しをすることで文字自体に特別な意味を感じさせまいとする意図からであった。
 
 前回は、大正8年に、本来は嫡男である(ただす)が誕生した時、直弥は、妻の澄と共に入った。
 その前は、澄が懐妊中、直弥一人で入った。

 明治維新の前は、何度か、当主が入った記録があり、当時の当主直之進が、末弟の弥太郎と蔵に入ったのが最後であった。

 明治に入ってからは、日清、日露の両戦争の数年前に、同じく直之進と弥太郎の二人が入っている。
 第一次世界大戦の数年前には、当時若くして当主となった直弥と、弥太郎の後継者である弥之助が入ったのである。
 また、これらの戦争において従軍することになる山崎家や榊家の一門、それに山崎四天王家の若者や榊家の累代の家臣とも言える使用人たちも入ることがあった。

 当主が蔵に入ると、その後、日本国に大きな事件が起こる確率が高い。
 山崎本家の使用人たちは、緊張に包まれて、数日前から屋敷の内外を掃き清め、来客の食事や、宿泊の準備をするのであった。

 当日になった。
 来客は、五菱財閥総帥山崎弥之助と嫡男の小弥太であった。
 小弥太は21才、直の5才年長であり、やはり、中高と飛び級をして帝都工業大学工学部を卒業したばかりであった。
 この時、直は中学4年生で、高知市で開催されていた剣道の県大会に出場しており、不在であった。

 前日に到着した弥之助と小弥太は、何度か山崎本家を訪れており、直とも会ったことがあった。
 弥之助と小弥太は、直弥ら本家の人間たちと旧交を温めた後、その夜は早々に就寝し、翌日早暁起床すると、直弥、弥之助、小弥太の三人は、揃って井戸水で体を清めた後、軽い朝食を摂り、蔵へと入った。

 その日は、三人とも朝から深夜まで蔵に籠り、食事は、決められた時間に使用人が蔵の入り口まで持って行くと、小弥太が出てきて中に運ぶのだった。
 その他に、彼らが外に出るのは用を足すときだけであった。

 蔵の中で三人は、それまでの指図書には例を見ない詳細な記述を目にすることになった。

 それは、二年後に勃発する盧溝橋事件から始まる日華事変と、昭和16年の日米開戦を含む大東亜戦争の行く末と財閥解体、さらには、その後の日本について、詳細な記述がなされていたのだ。

 最後の部分には、来るべき日本の国難までもが記述されていた。
 それは、85年も先のことであるが、それに向けて、今、山崎一族がなすべきことが記されていたのだ。
 その中には、(ただす)の役割の記述もあった。

 さらに、この時の蔵入りには、あと一つ大きな出来事があった。
 指図書と共に、山崎家に伝えられていると言われているのみで、誰も見た事が無かった始祖様の似せ絵が、指図書と共に忽然と現れたのだ。

 その似せ絵には、始祖様と他に三名が描かれており、それぞれの名と説明も記されていた。
 それは、山崎の血を継ぐ者にとって驚天動地のことであった。
 85年後にその役割を終え、見届ける者は、直であることも記されていた。

 5年後、21才の直は、ほぼ同じ内容の指図書を見ることになる。
 陰の修羅の道を歩む運命にある心優しき直が、どの様な時も一筋の光と希望を失う事が無かったのは、この指図書と似せ絵があったからであった。

 指図書を見た者は、指図書の存在そのものについて、決して口外してはならない。
 指図書の指示を実行するうえで、必要最小限の内容しか口に出してはならない。
 この二つは、指図書の最後に必ず記載されていた。
 だが、この時の指図書には、あと一つ奇妙なことが記されていた。

 直、直道、小弥太のそれぞれの曾孫(そうそん)(ひ孫)には、出来れば「馬」の字を付けてほしい。決して強制ではない。
 というものだった。
 三人は深く頷くとともに、その時まで生きているであろう直を羨ましく思うのだった。

 5年後、21才の直が直弥と共に蔵に入り、その2年後には、やはり21才となった直の弟で、直弥の後継者である直道も蔵に入った。

 明治維新に並ぶ昭和20年の敗戦という日本の一大転換点の10年前に生きる山崎家の人間たちは、強い決意を胸に、それぞれの使命を果たすべく邁進していくのだった。
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