第65話  闇の守護者~直の同志 山崎一族

文字数 3,623文字

 榊直(さかきただす)が、山崎本家の当主だけが入ることを許されている蔵に入ったのは、昭和15年であった。
 これの5年前、五菱財閥の総帥山崎弥之助と後継者の小弥太が入っていた。

 弥之助と小弥太が、本家当主の直弥と共に蔵から出た時は、すでに夜の闇が覆っており、その夜は本家に泊まり、翌朝早暁に二人は土佐を発った。

 小弥太は、帝都工業大学工学部を卒業後は、五菱本社ではなく、本人の希望で五菱重工に就職が決まっていたが、五菱商事に入社し、直ぐにアメリカ勤務となった。

 小弥太の仕事は、ワシントンにおいて、アメリカ政府、軍とのコネクション作りであった。
 日米開戦と日本の敗戦を見越して、10年後の政府要人、軍の要人となりそうな人物との関係を築くことであった。
 だが、五菱の情報網を以ってしても、そのような人間を特定することは難しく、小弥太は、五菱の情報を元にしながらも、出席できるのであれば、将校や政治家のパーティーに必ず参加した。

 小弥太の連日のパーティ参加を呆れたり、訝しがる者もいたが、小弥太が日本最大財閥の御曹司であることを知ると、皆一様に、セレブならそれが仕事なのだろうと何となく納得したのだった。
 やがて、ワシントンでの顔も広くなり、様々なパーティーに出席できるようになった。

 政治家や軍人との交際の広がりによって、後に親日家となるアメリカ人とも知己を得ることが出来たのだった。
 連日のパーティー出席は、体の負担も大きかったが、小弥太にとっては毎日が真剣勝負であり、全く気にならなかった。

 小弥太は、出来ることなら親日家を増やして、来る日米開戦も阻止したかった。しかし、米政府内部には、多数のソビエンツ共産共和国連邦(略称 ソ連)のスパイが潜入しており、反日感情が、確実に醸成されていくのを感じざるを得なかった。
 それでも、昭和15年に父、弥之助が亡くなるまで、小弥太は対米工作に奔走したのであった。

 小弥太が、アメリカで対米工作に励んでいたころ、小弥太の父、弥之助は、敗戦後の財閥解体や預金封鎖、財産税に備え、考えられる限りの準備を進めていた。

 指図書には、日本の経済力を弱体化し、アメリカの属国化を図るために、アメリカが行う対日政策が詳細に記されていた。
 弥之助は、まず、五菱本社の山崎家の持ち株を極力少なくした。
 持ち株の売却によって得た資金は、五菱重工を中心とした財閥内各社の株の持ち合いの原資として、戦後のグループ再結集がよりスムーズに運ぶように工作を進めた。
 念のため、五菱重工など各企業の山崎家持ち分の株式は、一見関係のない会社や個人に分散し、名義上の山崎一族の持ち分を、五菱本社と同様極力少なくした。

 預金封鎖に対しては、現金や貴金属、現金化が容易な有価証券、さらには他人名義にした株の株券といったものまで、土佐の山崎本家の当主以外入ることが許されない蔵へ搬入された。

 当時は、株券の電子化はされておらず、現物の株券を所有することが重要であった。
 株の名義のみ他人名義とし、真の所有者は、山崎家であることを明記した念書を取り、株券は、山崎家が改めて回収し、所有したのだった。
 土佐の山崎本家の蔵の中への搬入については、弥之助たちは、若干の不安を覚えたが、それは指図書に記されていたのだ。

 財産税についても、山崎本邸以外の目ぼしいものは、株と同じように念書と権利書を取り、全て、関連の会社名義や他人名義に書き換えていった。
 後に、竹田製薬工業の武闘派と弥太郎たちの初めての顔合わせで利用された料亭も、この時、名義を変えていたものだった。
 その料亭は、密談に利用するのに便利なため、名義を元に戻さなかったが、戦後も変わらず、山崎家が所有する物件の一つだ。

 戦後、山崎家は、都内にあった一万五千坪の敷地を有した本邸を接収され、さらに財産税のため、売却することになった。
 しかし、売却先は、旧五菱財閥に属していた各企業によって設立された「日本経済研究所」であり、戦後はこの旧山崎本邸で、毎月五菱評定が行われるようになった。
 山崎家は、東京郊外の五千坪ほどの屋敷に転居したが、賃貸であった。
 ところが、この賃貸物件も真の所有者は、山崎家であったのだ。

 弥之助は、清廉の人であり、自分の強欲のために、このような手を打ったのではない。
 敗戦後、日本を再興し、来る国難に際して、いち早く十分な準備をするためにも、日本経済の早急な立て直しが必要であり、極秘ではあるが、指図書によってその使命を課されているのが山崎家である以上、弥之助は、どのような非難も覚悟の上で、対策に邁進したのだった。

 それに、指図書には、敗戦後、天皇制を廃する主張が、戦勝国から挙がると記されていた。
 国体の護持は、一命に替えても、何としても守り抜かねばならない。
 このことは、息子の小弥太とも話し合い、もし、自分が亡きあとも、小弥太が必ず遺志を継ぎ、帝をお守りする覚悟を互いに新たにしたのであった。

 東京郊外の五千坪ほどの屋敷についても、真の目的は、万が一にも不幸にして天皇制が廃され、帝が御退位された場合は、そこへお迎えし、天皇ご一家には、ご不自由のないご生活をお続けになることが出来るようにとの配慮からだった。

 実は、この屋敷の周辺の土地は、かなり広範囲にわたって秘密裡に確保済みであった。
 占領軍が、日本に駐留中は、出来るだけ目立たないようにし、占領軍が撤退後には、御所を拡張するためと、帝の警護のための用地の確保であった。

 このようなことは、平安末期から特に応仁の乱以降、何度もあったことであり、山崎家の人間にとっては、お家の使命ともいえるものである。
 弥之助は、その使命を果たしてきたご先祖を誇りに思い、今また、そのお役目のために働けることに、血が沸き立つような興奮を覚えるのであった。

 しかし、ご退位による仮の御所の造営などあってはならぬことである。
 弥之助は、遠くアメリカで孤軍奮闘しているであろう息子、小弥太の首尾を祈るばかりであった。

 弥之助は、昭和10年から昭和15年までの5年間、その使命を果たさんと寝食を忘れ奔走し、一定の成果と目途を付けることが出来た。
 これなら、息子が帰ってきても、あまり苦労を掛けずに済むだろうと一安心した頃、長年の過労が祟ったのか、ある日の朝、いつもより遅い起床に女中頭(じょちゅうがしら)が様子を見に弥之助の寝室に入ったところ、すでに弥之助は、ベッドの上で息を引き取っていたのだった。

 父弥之助の急死の報せに、小弥太は、急遽帰国し、五菱財閥最後の総帥として父弥之助に優るとも劣らない苛烈さで、総帥としての職務と、戦後を見据えた働きをするのだった。

 その働きの中には、榊 直(さかき ただす)を陰ながら支援することも含まれていた。
 指図書には、幾つかの南方の島における玉砕が記されていたが、その中の一つに直が配属していることを知ると、あらゆる伝手を使って、軍に(ただす)の転属を働きかけたのであった。

 戦後、直に戦犯容疑がかけられた時も、GHQを通じて、戦犯とするのは好ましくないとの意見書を出すよう陰から働きかけたのであった。
 その際、アメリカで5年間に亘って築いた人脈が、役に立ったのは言うまでもない。

 昭和10年から敗戦までの期間の働きと、天皇制と国体の護持、戦後の五菱グループの再編強化が、小弥太の使命であった。

 昭和23年、小弥太は、34才で結婚した。
 新妻の佳奈恵は、前年に高等女学校を卒業しており、18才であった。
 16才の年齢差であったが、夫婦仲は睦まじく、生涯おしどり夫婦であった。
 二人は、リビングでよく色々な話をしながら笑い声を立てることが多く、使用人たちは、主の不遇に涙しつつも、若い二人の笑い声が聞こえてくると、知らず知らず顔がほころんでしまうのであった。
 小弥太は、あどけなさが残る妻の顔を見ながら、

 (来年には、長男が産まれる・・これからの五菱を新しい形で率いていくことになるとお示しになっていたな・・名前は、そうだ、弥太郎にしよう。初代様のように、新しい五菱を作っていくのだ・・困難なことも多いだろう・・不憫だが、山崎の家に生まれた者の宿命なのだ・・強く生きていけよ、弥太郎・・・)


 平成11年(1999年)、小弥太は、妻の佳奈恵と立派な後継者となった弥太郎とその家族に看取られながら、85年の波乱にとんだ生涯を閉じた。

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設定
 ユーラシア大陸北部の広大な国土を有する国家
 ---ロシアンゴル帝国---
  略称=ロシア帝国 1721~1917
 ---ソビエンツ共産共和国連邦---
  略称=ソ連    1922~1991
 ---ロシアンゴル共和国連邦---
  略称=ロシア連邦 1991~
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