第74話 東京メディシンの新しい出発~降格
文字数 2,821文字
降格となったのは、三人の部長である。
彼らは、竹田製薬工業から部長として任命され、末田と沼田の監視と東京メディシン発展の期待を担っていた。
だが、彼らは、親会社からの任命という事で身の安泰が保証されたと思ったのだ。
最初は、使命を十分に理解していたのだが、泥沼コンビの支配体制が進む中で、次第に業務への取り組みも波風を起こさず、大過なく過ごせれば良いと考えるようになった。
年収は、900万円、多いとは言えないが、課長の700万円に比べたらましだ。
週に一度の親会社から派遣された取締役への説明でも、肝心な部分を曖昧に報告したりした。
一度、そのような報告をすると、会社の状況が厳しくなるにつれ、次第に辻褄を合わせるような報告に変質していったのだった。
結果、竹田製薬工業の竹田智之が、状況を正確に捉えることを遅くしてしまったのだ。
本来なら、泥沼コンビと一緒に放逐すべきかとも思ったし、親会社の竹田製薬工業も彼らの無責任さには強い怒りを覚えていた。
だが、竹田製薬工業にも任命とその後の報告連絡にも責任があることであり、また、拓馬の能力と差配には全幅の信頼を置いていたので、一切口出しはなかった。
ちなみに、派遣されていた取締役には、竹田製薬工業内で、降格左遷、そのうえ遠方への転勤という厳しい処分が下された。
新しい取締役については、拓馬に一任しても良いとも言われたのだが、親会社から取締役が派遣されないというのは異例であり、今回は従来どおり、三名の派遣をお願いした。
■■■
余談ではあるが、降格された取締役(竹田製薬工業では部長格、降格後は、次長の下の課長であった。)たちは、東京メディシンの三部長からの報告は、当初から当時竹田製薬工業人事部長の高田里帆氏(現人事担当取締役)に全てをありのまま伝えていたとして、不服を申し立てた。
この時、社長は、智之から森山秀二に交替した直後だったが、森山は、怒髪天を衝く形相で三人に対し、高田里帆の退職届を振りかざし、
「お前たちにこれだけの覚悟があるとか! あるとなら見せてみろ!」
と怒鳴り返したのだった。
三人は、黙るしかなく、以後、不服を申し立てることは無かった。
もちろん、森山は、里帆の退職を認める気など全くなかったので、
「退職届は、先代が預かっただけで正式に受理はしていない。俺もそうだ。第一、高田さんの功績とあいつらを比較など出来るか! そのうえ、これから竹田製薬工業が世界展開をしていく時に、その牽引車をはずすなんて馬鹿なことをしたら、俺は、お義父さんどころか歴代の社長に顔向けが出来なくなる。高田さんの退職を認めるなら、あの三人は馘にしても足りない」
と周りに言い、高田里帆を慰留する際も、このことを彼女に伝えた。
里帆は、自分が退職することで三人が馘になることを聞いた時は、激しいショックに襲われた。
新生竹田製薬工業が発足した時、大勢の旧竹田製薬工業の社員の馘を切らざるを得なかったが、あの人たちの奥さんや家族はどうなるのだろうか、と考えて夜も眠れない日が続いたのだ。
里帆は、森山社長の慰留を受けて退職はとどまったが、その代わりと言って、東京メディシンへの出向を希望した。
表向きは、何らかの責任を取る必要があるからと云うものだったが、里帆の本心は、別のところにあった。
拓馬の下で鍛えて欲しいという一点だけだったが、
森山からは、
「こんな大事な時に、出来る訳がないじゃありませんか」
と一蹴されただけだった。
それでも、里帆は、一年だけでもいいからと食い下がったのだが、やはり、森山の回答は同じであった。
本気で東京メディシンへの出向を希望していた里帆は、暫くの間意気消沈していた。
若干28才の青年が、子会社とはいえ東京メディシンの社長に就任し、五菱グループをあげての肝いりだということは、五菱内や竹田製薬工業はもちろん、目ざといマスコミや世間においても注目され始めていた。
竹田製薬工業の社員も、今回の件の結末については、皆が注視していたのだが、高田取締役は、本気で責任を取るつもりだったんだと誰もが確信した。
元々社員の人気が高かった高田里帆の評価はますます上がった。
森山新社長の判断にも異議を唱える者は、一人も無いどころか、社長としての手腕も高く評価されることになった。
降格された三人は、法廷闘争まで相談していたが、このままでは本当に自分たちの居場所が無くなることを自覚し、この件はこれで終焉したのだった。
■■■
拓馬は、降格させた三人の部長には、新設の社長室内で、新プロジェクト関連の課長相当職としていずれも具体的な業務を与えた。
拓馬は、三人に自ら動くことを求めた。
部下も問題ごとに必要の都度、プロジェクトから機動的に配置することとした。
東京メディシンは、新規事業を幾つも立ち上げる計画であり、その事業に精通したり適性のある人間を配置する予定だ。
だが、それらにも共通した業務がある。
人事管理や官公庁との法的手続き、それに事前の市場調査の再確認や事前の営業活動などである。
三人の元部長は、元々優秀だったから竹田製薬工業は期待したのだ。
泥沼コンビのような異常すぎる上司にどう対して良いのか分からず、間違った対処をし、会社を危うくしてしまったのだ。
仕事に対する熱意とか、気概に欠けた部分はあったが、使いようでもある。
拓馬は、彼らには、新規事業の立ち上げが一段落した後、福祉施設でしかるべく役職を与えるつもりだ。
だが、彼らは、平時ではバランスの良い仕事が出来るが、乱時には問題から逃げる傾向がある。
問題が生じた時、福祉施設が単独で孤立し、孤軍奮闘を強いられることになれば、また対処を誤るだろう。
そうならないように東京メディシングループとして補完していく体制を作るつもりだ。
ちなみに、年収はマイナス100万円の800万円を提示した。
また、室長が部長待遇の社長室を新設したものの、基本的には部制を廃止して課制を敷いた。
社員は、70名から140名と倍になったが、単純に部制を敷くまでもないと考えたのだ。
役職者のポストとか、対外的な交渉で必要とかの面があることも否定はしないが、これから東京メディシンはそんなことを考えているような暇はなくなるだろう。
拓馬は、三人について思っていることを正直に伝えた。
今後の計画についても可能な限り話し、協力を求めた。
彼らの年収は減額されたが、他の課長の700万円に比べればまだ多い。
部制が廃止され、部長そのものが無くなった。
守ってやる必要はないのだが、三人の面子 は最低限守った格好だ。
三人は、自分たちが予想していた内容より厳しいと思ったが、自分たちの仕事ぶりに問題があったことは、自覚していた。
結果的には、あからさまな懲罰的異動ではなかったことに胸をなでおろすことにしたのだった。
彼らは、竹田製薬工業から部長として任命され、末田と沼田の監視と東京メディシン発展の期待を担っていた。
だが、彼らは、親会社からの任命という事で身の安泰が保証されたと思ったのだ。
最初は、使命を十分に理解していたのだが、泥沼コンビの支配体制が進む中で、次第に業務への取り組みも波風を起こさず、大過なく過ごせれば良いと考えるようになった。
年収は、900万円、多いとは言えないが、課長の700万円に比べたらましだ。
週に一度の親会社から派遣された取締役への説明でも、肝心な部分を曖昧に報告したりした。
一度、そのような報告をすると、会社の状況が厳しくなるにつれ、次第に辻褄を合わせるような報告に変質していったのだった。
結果、竹田製薬工業の竹田智之が、状況を正確に捉えることを遅くしてしまったのだ。
本来なら、泥沼コンビと一緒に放逐すべきかとも思ったし、親会社の竹田製薬工業も彼らの無責任さには強い怒りを覚えていた。
だが、竹田製薬工業にも任命とその後の報告連絡にも責任があることであり、また、拓馬の能力と差配には全幅の信頼を置いていたので、一切口出しはなかった。
ちなみに、派遣されていた取締役には、竹田製薬工業内で、降格左遷、そのうえ遠方への転勤という厳しい処分が下された。
新しい取締役については、拓馬に一任しても良いとも言われたのだが、親会社から取締役が派遣されないというのは異例であり、今回は従来どおり、三名の派遣をお願いした。
■■■
余談ではあるが、降格された取締役(竹田製薬工業では部長格、降格後は、次長の下の課長であった。)たちは、東京メディシンの三部長からの報告は、当初から当時竹田製薬工業人事部長の高田里帆氏(現人事担当取締役)に全てをありのまま伝えていたとして、不服を申し立てた。
この時、社長は、智之から森山秀二に交替した直後だったが、森山は、怒髪天を衝く形相で三人に対し、高田里帆の退職届を振りかざし、
「お前たちにこれだけの覚悟があるとか! あるとなら見せてみろ!」
と怒鳴り返したのだった。
三人は、黙るしかなく、以後、不服を申し立てることは無かった。
もちろん、森山は、里帆の退職を認める気など全くなかったので、
「退職届は、先代が預かっただけで正式に受理はしていない。俺もそうだ。第一、高田さんの功績とあいつらを比較など出来るか! そのうえ、これから竹田製薬工業が世界展開をしていく時に、その牽引車をはずすなんて馬鹿なことをしたら、俺は、お義父さんどころか歴代の社長に顔向けが出来なくなる。高田さんの退職を認めるなら、あの三人は馘にしても足りない」
と周りに言い、高田里帆を慰留する際も、このことを彼女に伝えた。
里帆は、自分が退職することで三人が馘になることを聞いた時は、激しいショックに襲われた。
新生竹田製薬工業が発足した時、大勢の旧竹田製薬工業の社員の馘を切らざるを得なかったが、あの人たちの奥さんや家族はどうなるのだろうか、と考えて夜も眠れない日が続いたのだ。
里帆は、森山社長の慰留を受けて退職はとどまったが、その代わりと言って、東京メディシンへの出向を希望した。
表向きは、何らかの責任を取る必要があるからと云うものだったが、里帆の本心は、別のところにあった。
拓馬の下で鍛えて欲しいという一点だけだったが、
森山からは、
「こんな大事な時に、出来る訳がないじゃありませんか」
と一蹴されただけだった。
それでも、里帆は、一年だけでもいいからと食い下がったのだが、やはり、森山の回答は同じであった。
本気で東京メディシンへの出向を希望していた里帆は、暫くの間意気消沈していた。
若干28才の青年が、子会社とはいえ東京メディシンの社長に就任し、五菱グループをあげての肝いりだということは、五菱内や竹田製薬工業はもちろん、目ざといマスコミや世間においても注目され始めていた。
竹田製薬工業の社員も、今回の件の結末については、皆が注視していたのだが、高田取締役は、本気で責任を取るつもりだったんだと誰もが確信した。
元々社員の人気が高かった高田里帆の評価はますます上がった。
森山新社長の判断にも異議を唱える者は、一人も無いどころか、社長としての手腕も高く評価されることになった。
降格された三人は、法廷闘争まで相談していたが、このままでは本当に自分たちの居場所が無くなることを自覚し、この件はこれで終焉したのだった。
■■■
拓馬は、降格させた三人の部長には、新設の社長室内で、新プロジェクト関連の課長相当職としていずれも具体的な業務を与えた。
拓馬は、三人に自ら動くことを求めた。
部下も問題ごとに必要の都度、プロジェクトから機動的に配置することとした。
東京メディシンは、新規事業を幾つも立ち上げる計画であり、その事業に精通したり適性のある人間を配置する予定だ。
だが、それらにも共通した業務がある。
人事管理や官公庁との法的手続き、それに事前の市場調査の再確認や事前の営業活動などである。
三人の元部長は、元々優秀だったから竹田製薬工業は期待したのだ。
泥沼コンビのような異常すぎる上司にどう対して良いのか分からず、間違った対処をし、会社を危うくしてしまったのだ。
仕事に対する熱意とか、気概に欠けた部分はあったが、使いようでもある。
拓馬は、彼らには、新規事業の立ち上げが一段落した後、福祉施設でしかるべく役職を与えるつもりだ。
だが、彼らは、平時ではバランスの良い仕事が出来るが、乱時には問題から逃げる傾向がある。
問題が生じた時、福祉施設が単独で孤立し、孤軍奮闘を強いられることになれば、また対処を誤るだろう。
そうならないように東京メディシングループとして補完していく体制を作るつもりだ。
ちなみに、年収はマイナス100万円の800万円を提示した。
また、室長が部長待遇の社長室を新設したものの、基本的には部制を廃止して課制を敷いた。
社員は、70名から140名と倍になったが、単純に部制を敷くまでもないと考えたのだ。
役職者のポストとか、対外的な交渉で必要とかの面があることも否定はしないが、これから東京メディシンはそんなことを考えているような暇はなくなるだろう。
拓馬は、三人について思っていることを正直に伝えた。
今後の計画についても可能な限り話し、協力を求めた。
彼らの年収は減額されたが、他の課長の700万円に比べればまだ多い。
部制が廃止され、部長そのものが無くなった。
守ってやる必要はないのだが、三人の
三人は、自分たちが予想していた内容より厳しいと思ったが、自分たちの仕事ぶりに問題があったことは、自覚していた。
結果的には、あからさまな懲罰的異動ではなかったことに胸をなでおろすことにしたのだった。