42.《 手を合わせる日 》 2022/10/19

文字数 1,290文字



皺と皺を合わせて 「幸せ~」というご仏壇屋さんのコマーシャルがあった、今もあるのかな。
仏教徒である僕ならば、手と手を合わせて「南無~」というところだろうし、
キリスト教徒であれば、指と指を絡めて「アーメン」というのだろうか?

手を合わせるというポーズは「ありがとう」という感謝の意味が強い、
宗教にはこの感謝が基本にあるのに違いない。
守ってくれてありがとう、
許してくれてありがとう、
叶えてくれてありがとう、
大きくまとめれば、そばにいてくれてありがとう、に収束するように思っている。

さて、2022年7月の元総理大臣暗殺事件以来、某宗教法人が問題になっているのは、その教義もさることながらお金に関するトラブルだった。
当該宗教法人の教義や献金実態に関しては詳細不勉強なので、僕の宗教である仏教(浄土真宗)に置き換えて考えてみた。
阿弥陀仏に身を委ねる安心感は、過去には死を賭して時の権力に敵対することもあったが、信教の自由を保障された現在では政治色はない(と願う)。
もとより浄土真宗は庶民の宗教として勢力を拡大した歴史背景から膨大な資産を蓄積しているらしいが、世の中のメジャー宗教はすべてこのようなものではあるから非難するポイントではないだろう。
僕のような最末端の信者が接するお寺さん(住職)は、無税措置のおかげで毎日を何とかやりくりしているようだが、世の中の宗教離れに大きな痛手を受けていることは間違いない。

その要因をいまさらながら列挙しても詮無いことであるが、まず一番に直近30年間の日本人貧乏化を無視することはできないだろう。
なぜならば、仏教での利益源は葬式、法要、墓地に大きく依存している一方で、21世紀の日本人は所得停滞を理由にこれらをことごとく簡素化あるいは廃止する合理性を発揮している、むろんそのベースに宗教への不信や形骸化を嫌っているところもあるだろう。
加えて核家族、少子化、地方疲弊、近年ではコロナ感染防止・・・などの要因が日本貧困化に輪をかけ,更なる宗教離れを進めている。
仏教が「死」を利益の根源にしている限り、宗教離れ傾向は続くだろうし、いつの日にか存在意義すら無くしてしまうだろう。

そこで「手を合わせて感謝する」原点に立ち戻らなければいけない。
感謝する対象が阿弥陀仏であれ、現実にはそこに介在する僧侶に感謝する形であれ、感謝の心にしか仏教の生き残る道はない、つくづくそう思える毎日だ。
それもこれも先に問題提起した某宗教法人が反面教師となって教えてくれる。
どんな宗教であれ信者に献金を強要する教義、または献金をノルマ化するような組織運営は許されるものではない。金儲けありきの組織はそもそも宗教と名乗るべきではない、まして政治との癒着をこのまま放置してはいけない。

閑話休題、
このたび檀那寺が本堂を新築した。
無から立ち上げたお寺、ここに至るまでには三十年 住職二代にわたる苦難の歳月があった。
極めてまれな本堂新築、通常250年に一度のことだと聞いた、
時代に流されることのない感謝の想いを肌で感じ取る落成法要、
精いっぱいの寄進を携えてお祝いに参上し、手を合わせた「今日である」。
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