70. 《 春を思う日 》 2023/4/26

文字数 1,703文字



今春 孫ハルキが小学五年になった、新学期恒例の授業参観そのあとの面談に妻が代理で出席したときのお話から始まる。

父兄面談の場で妻が「うちの子は勉強が嫌いですが、野球は毎週末練習や試合で頑張ってます」と当たり障りない挨拶をした。
ひとりの母親がこれに反応して「娘は今サッカーをやってるのですが、WBC以来野球に夢中で毎日素振りしてるんですよ」ときた。
この話が夕食の席で披露されたとき僕が、意地悪なフォローをした・・・
「じゃさ ハルキ、明日Aちゃんをスカウトしなよ、体験練習においでって?」

今彼の所属するチームは6年生不在の弱小チームだ、それ以前に部員数が少ない、一人でも戦力が増えることは有難いはずだ。ハルキの兄も姉も同じチームにいた、県内強豪校部員やプロ女子野球をめざしている先輩たちも現在いる。少年少女の体力差が小さいこの時期、少年野球チームへの女子入部ハードルはかなり低いとも聞いている。

「でもあいつ 俺のこと嫌いだし…」と一瞬気弱になるハルキ。
「仲よくなるチャンスじゃない?」と煽ってみる。
「体験練習スケジュール メモしてやろうか」 チーム監督をしているハルキの父親も乗り出してくる。
「おばあちゃん 明日の朝、 忘れないようにもう一度言ってね このこと」

翌朝、浮かぬ顔しているハルキに妻がリマインドする、
「今日 Aちゃんを野球に誘うこと忘れないでね」
「やっぱりやめとく、サッカーのほうが好きそうだし・・・」

そうじゃなくて、話しかけるのが恥ずかしいんだよね、きっと。
無理強いはしないままで終わった。

●それから8年の時が過ぎた(当然ここからはフィクションになる)●

ハルキとAは海老名市の市長室でかしこまって慣れないふかふかのソファに沈みそうになるのを我慢して背筋をピンと伸ばして座っている。
二人を表彰してくれる晴れの場にだらりとしているわけにはいかない、副賞もいただけるとあってはなおさらである。
Aは高校生でなでしこ日本代表に選ばれた、ハルキは在阪球団からドラフト指名を貰った、どちらも海老名市の名誉を担ったということでスポーツ奨励賞が授与されることになった、その当日である。
二人は小学校、中学校と一緒だったが互いにスポーツにすべての時間をささげたため、一度も親しい会話をしたことがなかった。小学5年生になった時、唯一その機会が巡ってきたが、ハルキの弱腰で貴重なチャンスを失くしたことは我々も知っている小さな秘密だ。
とはいえ、二人ともに互いの活躍は知っていたし、アスリートとして種目が違うとはいえ達成したことを尊敬しあっていた。

定刻に市長が現れて笑顔いっぱいで賞状と賞品を二人に渡して、そそくさと次の約束に退出していった。
なんだかあっけにとられてぼんやりしているハルキにAが笑みを浮かべたまま話しかける、小さな優しい声で。
その声は何処か懐かしく温かかった・・・小学校の教室ではいつもこっそりとAの声に聞き耳立てていた、あの忘れることのない響きだった。

「5年生の時覚えてる?ハルキが野球に誘ってくれてたら、今の私はなかったわけね」
「いや、俺誘ったことないけど、君はサッカー一筋だったし」
「母さんがね、あの時ほら5年生の最初の懇談会で、私が野球に夢中だって言った時よ」
「??」
「次の日 ハルキが誘ってくれるとばっかり思ってたの」
「そんなことあったっけ?」
「何言ってんの、何回も私のそばに来て口をもごもごさせてたでしょ、私誘ってくれるの待ってたんだよ、あれからもずっと」

恥ずかしくて野球に誘えなかったのではない、何だか知らないものが胸のなかに詰まって言葉が出なかっただけだったことをいまさらAに言い訳するわけにもいかない。
その理由も知っている、Aがかわいい子で、気になる子だったから。

「えっと、よかったらお茶か何か、いつか誘ってもいいかな?」 
「いつか?」
「いや これから 帰りにでも」
「お茶か何か?」
「たとえば ビッグマックとか」

ハルキの思春期を勝手に想像して楽しむ爺様の 今日である。

(注)ラストのデート申し込み会話は、「街とその不確かな壁(2023) 村上春樹」のなかのエピソードを真似させていただきました。
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