53. 《 パスする日 》 2022/12/28

文字数 1,669文字



 
ある瞬間突然に今までできていたことができなくなることがあった。

勤め人時代、毎朝妻に駅まで送ってもらう車の中でネクタイを結ぶのを朝の行事の締めとしていた。ある朝のこと、どうしてもネクタイが結べない、何度やり直しても途中で手が止まってしまう。サラリーマンの戦闘服ともいえるスーツとネクタイを着用して何十年が過ぎたころの話だ。
鏡など見なくても無意識にネクタイを結べる自分が、その瞬間どこかに消え去っていた。

人前に出ることが気にならない性格だ、小さい頃は目立ちたがり屋と言われてきたが、どうやらこれがナルシストの原点だったことに後年思い至っている。長じて仕事をする中でも、社内向けにあるいはお客様に対してプレゼンテーションをするのも嫌いではなかった、どちらかというと得意だった。書類からスライド映写へ、そこからまたパワーポイントまでのビジネスプレゼンを経験できた貴重な世代だったかもしれない。
ある時、顧客先で新規取引獲得のため当時所属していた会社のプレゼンをしていた時、突然言葉が一言も出なくなったことがある。あまりのショックに頭のなかが空白になり血の気を失いテーブルに突っ伏した。

自分勝手な解釈をすれば、この二つの出来事の原因は「負のストレス」だった。
一つ目は会社に行きたくないという潜在意識がネクタイに現れた。
二つ目はその組織を嫌悪していたので、嘘八百の会社説明を拒否した。
科学的裏付けはさらさらないが、なかなか面白い見立てだと自負している。

先日、パスワードが頭の中から消え去ってしまった。
パスワードなしでは現在のデジタル社会を一日たりとも過ごすことはできない、だからパスワード管理は便利さに伴う当然のリスク回避約束事である。
パスワードと言っても、実際には大きく二つに分けて設定している。
ひとつはアプリ・会員登録のための緩やか型、もう一方は決済が絡まる慎重型である。
例えば PC、スマホのロック解除やSNS会員のパスワードは穏やか型であり、クレジットカードのPIN などは慎重型にしている。
しかし、最近はパスワード仕様条件が厳しくなり大小英文字・数字で何文字以上・・・などと要求されるようになってきた。対応策として、緩やかパスワードと慎重パスワードの2種類を用意して使い分けているが、この決断に至るまでは、過去各種多彩なパスワードを作ってきたのは仕方ないことだった。
それらはいまさら変更するのも面倒なので捨て置いている、ほとんどが使わないアプリ・ネットショップなのでそれでも問題ない。
とはいえ、予想しないトラブルに対応して念のため過去のパスワードをズラリと並べたエクセルデータをPC内に保管している。

先日、突然忘れてしまったパスワードは一番緩やかなもの、PC ロック解除にも使っているパスワードだった。
毎回PCを使用する際に、指先が勝手に動くくらい身体に馴染んだパスワード、それがエラーになる、いったい何が起こったのか?
指に尋ねることをやめて、理論的にパスワードの由来を思い出そうとする・・・誕生日?番地?愛犬の名前?出身地?
ようやく設定の由来は思い出したものの、肝心のパスワードがどうしても思い出せない(例えれば愛犬の誕生日だと思いだしたが、その日にちが思い出せない)
悩んだ挙句の果てに、フェールセーフとして以前紙に印刷したリストが引き出しのどこかにあることを思い出す。
結局デジタル21世紀に役立ったのはアナログ(印刷物)だった。

では、このパスワード喪失の原因は何か?
毎日パスワードを入力することにストレスを感じていたのだろうか? いやそれはまずない、間違いなく僕はデジタル21世紀を満喫している。
だとすると、想像するのも忌まわしいが「加齢ボケ」なのか? 
いつ何時、ボケてパスワードを忘れ、その保管先も記憶になくなる状況になってもおかしくない年齢だ。
今 SNS側でも利用者死後対応策を講じてくれているらしいが、何事も他人任せはよくない。

どこかの時点でパスワードを誰かにパスすること、そんな新しいマイルストーンを思い描いている 今日である。
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