81. 《 ロスト・ダイアリーの日 》 2023/7/12

文字数 3,320文字



日記をつける習慣がある、格別珍しいことではないが。
1999年からは「三年日記帳」をつけている、今年で24年目になるので9冊目に突入したことになる。1998年までは雑誌「トライアスロンJAPAN 」新年号付録、毎日三種目(ラン・バイク・スイム)のメニューと結果を記入できるトライアスロン専用日記を使っていた。手元に1988年から1998年までのトライアスロンダイアリーが10冊残っている(1989年が抜けているのは休養の一年だったため)。
1987年から2013年までの26年間トライアスリートだったなかでも、この11年間は特に濃密なトライアスロンライフを送っていたので面倒な記述形式日記を断念し毎日のトレーニングプランとその実績を記録するのを優先した、その結果この11年間 自身の言葉による記録は残念ながらどこにも残せていなかった・・・と後悔していた。

近年 世間で言われている終活をいまも継続している。
写真プリント、各種書類、手紙、書籍などは基本的に廃棄してきた、捨てたくないものはデータ化してHD に収めた。そんな中で日記類だけいまだに捨てられないでいるのは、それらがさほどのボリュームでないこともあるが、それ以上にぼくの日々の想いが生身のまま詰まっているからだ。おそらくこれらは遺品になるだろう。

その日記群の横に、不揃いなノート5冊が立てかけてあるのに気づいたのがつい先日のこと。
80話「サバティーニの日」の参考資料を物色していて見つけた、これらノートは後日チェックするために取り置いていたのを、ぼく自身が忘れていたみたいだ。

5冊の不揃いノートに記録されていたのは「チームターザン」に所属していた日々の始末記だった・・・・・確かにこれは捨てるわけにはいかない。
一冊目の最初の頁は1986年10月18日(土)の日付がある、
そこには「ハワイアイアンマンがコナで開催されているその日にチームターザン契約とは粋な演出」と記されている。チームターザンは当初一年間でトライアスロン頂点のハワイアイアンマン出場を目指していた。

5冊の日記には 二年後1988年秋のチーム解散までトライアスリートに変身する過程で感じたぼくの想いが赤裸々に綴られていた。かなりパーソナルな内容なのですべて公開する意味もない。
しかしその冒頭パートでぼくにとって大切な出来事が書き残されていた。
トライアスロンに集中するためにもマラソンでサブ3を達成しようとした1986年11月30日(日)河口湖マラソンに関する部分だ。

人生で何を誇りにするか?
家族や仕事以外で自分が誇りに思えるものは何か? と問われれば 
ぼくはアスリートになれたことと答える。
運動が嫌いで体育会系雰囲気も肌に合わず、だから軟弱な体だった僕がアスリートになるとは古い友人誰もが想像すらしなかった、ぼく本人が一番信じられないでいる、今でも。

アスリートの象徴となるビッグイベントは二回あった。
ひとつはトライアスロンの頂点であるアイアンマンハワイ完走であり、もうひとつはアマチュアマラソンランナーの勲章でもある3時間切り(サブスリー)達成だった。
サブスリー達成の記録を、その前後を含めた日記から以下引用する、文章の形態は一部調整しているがその真意は伝わるはずだ。

【ターザン日記からの引用】

1986年11月27日(木)
精神的にだんだん盛り上がってくるのがわかる。目標はあくまでサブスリー。
でも ちょっと無理かな? しかし狙ってみる価値と、そのためのトレーニング実績はあるけれど・・・。
などと取り留めないエンドレスのどつぼルーティンに入り込んでしまっている。
昨年と大きく違って心にゆとりがない。昨年は確かに初マラソンだったが距離に不安はなかったし、当日の雨という悪コンディションが初挑戦の気負いを完全に削いでくれたみたいだった。
ただただ走って完走するのみだった。
今回の大敵は記録への欲だと思う。
とはいえ記録への挑戦こそレースの本質であり、目標に横たわる障害克服こそアスリートの本懐である。リスクのないところに喜びはない、そして完走はもはやリスクではないのだ。

1968年11月28日(金)
今朝本気でスロージョグ5㎞を走る。
久しぶりに超スローで走ってみて、ランニングの難しさを再認識した。
フォームを守って走ることがなかなかできない、思いのほか脚に負担がかかる。
最後の調整と思って軽く流したつもりが、またまた考えさせられてしまった。
昨日から カーボ食に切り替えている。
朝 バナナ1.5本、食パン1枚、ゲータロード1袋
昼 とんかつ定食
15:00 あんパン2.5個
17:00 ケーキ2個
22:00 スパゲティミートソース1皿、ゲータロード1袋
23:00 アップルパイ、ゲータロード1袋
夜の入浴時の体重63㎏、この1週間で2㎏増量している、果たしてグリコーゲンが2㎏貯まったかどうかは30日の結果をみてのお楽しみに。

1986年11月29日(土)
午前中 小学校のロードレースを応援する、子供三人ともに満足できる結果ではないが、ランニングを趣味(病気)としている親としては子たちに厳しくするつもりはない。
その後大急ぎで他の4家族とともに山中湖の横浜市保養所に入る、昨年と同じである。
昨年の河口湖マラソンはぼくの初マラソン、今年はトライアスロンの1種目としてマラソンを考えるようになってしまった。
トライアスロントレーニングがスタートすれば、明日は今シーズン唯一のマラソンレースになるかもしれない。大きく挑戦してみるか。

1986年11月30日(日)
4時半起床、ゲータロード3本入りボトルを用意する、1本はスタート前、もう1本はレース中、そしてレース後にも1本。朝食はインスタントちからうどん、おにぎり3個、ゲータロード1杯。
今回の特別パフォーマンスは両腕、両脚にをマジックで記入したゼッケン番号とTARZANのTシャツ。
トライアスロンをイメージした企画であったが、結局のところ反響は何もなかった、残念。
サブスリー達成のためのタイムテーブル、5・10・15・20・25・30・35・40㎞ごとの目標タイムをこれまた腕にマジックで書いた。
天候は昨年とうって変わって晴天、気温も低くない、風もない 理想的なレース条件になった。
結果、 
まさかの夢のサブスリー、まさかの2時間58分47秒、正直なところ信じられない気持ちだ。
勝因はタイムテーブル通りに走ることができたことに尽きる。
35㎞地点で初めてロスしたが残り5㎞で取り返した、最終的には1分余りのおまけつきだった。
この一年間トレーニングしながら「サブスリー」の言葉を念仏のように唱えた結果の快挙、今となれば必然だったのかもしれない。
嬉しいことは 今までの苦しいトレーニングがしっかりと役だったということ、あとはトライアスロン!

1986年12月1日(月)
とにかく脚が痛い。
フルマラソン後、脚が痛むことは十分承知しているが久しぶりだけに強烈だ。
昨日の様子ではこれほどまで痛いとは想像しなかった、シーズン第一戦だからだろう。
でも一年前のように階段を後ろ向きで降りるほどではなかった、一つにはプライドがもはや許さないのだ。痛みの種類が昨年のそれと異なっている。
今回は痛みのほとんどはふくらはぎ、昨年が太ももだったのと大きな違いだ。
さて 痛みはいつまで続くのだろうか、とてもではないがトライアスロンのトレーニングを再開する気になれない。

1986年12月2日(火)
とにかく、まだ脚が痛い。
症状は昨日と変わらず回復しているとも思えない、バイク練習をと考えたが、とても乗ることさえできそうもない。本当に疲労だけの問題なのだろうか。
一流ランナーでないことのなによりの証明、アフターケアーのまずさである。
昨日ターザン編集部に連絡したところ「ノーチラス」でのウェイト・トレーニングが決まったとのこと、もっともっと脚の筋肉を強化しなければ。バイクも今週中に手に入るそうだ。
ようやくチームターザンが動き出すようであるが、それに先立ちサブ・スリーを達成できて ほっとしている。

・・・・・・・・・・
輝ける思い出に浸る 今日である。
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