67. 《 卒寿の日 》 2023/4/5

文字数 1,246文字



2023年3月13日からコロナ感染対策としてのマスク着用の扱いが変わった。
「扱い」と表現した通り、マスク着用の法的規定のないまま4年間マスクを行儀よく着けてきた国民に「今日からは個人の判断ですよ」というおかしな念押という扱いだった。
思い返せばコロナ拡大時にマスク着用を判断したのは個人、まさに個人の判断で全国民マスク着用という異常な状況だった。
欧米アジアの国々でマスク着用強制・罰則があったのとは大きな違いだった。

では、僕自身どのような心の機微で自主的にマスクをつけてきたのか? ここで検証してみたい。
第一にはコロナウイルスを吸い込みたくなかったから。
第二にはコロナウイルスを他人にうつしたくなかったから・・・・と、これはフェイクだ、一度も発症したことがないのだから。
では気を取り直して、
第二にはもし感染していて知らないうちに他人にうつすかも知れないから・・・が正しいだろう。
この周りへの思いやり力が日本(日本人)独特の美徳なのであるが、その裏側に大勢には反対できないという自己規制も働く。同調性向というやつである、自分の意思以上に世間にの流れを大切にする、まるで自分の意思を主張しない未成熟な幼子のように。
今回のコロナ騒動に限らず、歴史を見ても世界は日本人を良くも悪くもそう評価している、かってGHQマッカーサー元帥は1945年日本を統治した折に「日本人は12歳の子供」だと言い放った。

敗戦から78年の時が流れ、12歳の子供は90歳の老人になった。
90年の長き時の流れの果てに日本人はどれほど成長したのだろうか?
民主主義を学び、平和を尊び、戦争を放棄し、経済活動に邁進した。
エコノミックアニマルなどと揶揄された働きバチ日本人は、一方で精神基盤無きまま効率優先主義に堕ち自らを見失う、気付いてみると世界基準に届かない課題ばかりが山積みになり、得意だったはずの経済力にも陰りが出ている。
こんな90歳でいいのか?
無論ここでいう90歳はあくまでも戦後日本人というメタファーである。
僕自身 旧弊の日本スタイルを捨てきれないまま年を重ね、自由、平等、博愛の追及を後回しにしてきた身のふがいなさを今になって後悔している。

閑話休題、
マッカーサー元帥が日本人を12歳と評したのは将来の学習能力、人間としての進化を期待してのことである、決して揶揄したり侮蔑したわけではない(と信じている)。
今、壊滅的人口減が目の前に迫っている日本に意思のない同調能力はいらない、むしろ多様な能力のカオスが必要である。

今 目にしているマスクをつける・つけないの低レベルの論争にうんざりしている。
「周りに合わせる」とか「少数派になりたくない」と薄ら笑うおとなしそうな日本人にうんざりしている。
マスク着用論争の意義は感染対策や医療行為にとどまらない。
個人の意思、自由な意思をいかに行使できるかという自由であるべき人間の権利に関する普遍の命題である。
マスクの有無にかかわらず、自己を確信する聡明な顔を拝見したいと切望する 今日である。
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