2.《  ウイルス・ハワイ・感謝の日 》  2022/1/26

文字数 4,591文字




2022年になった。
世界のすべての同朋と同じように日本人の僕もこの2年間「新型コロナウィルス」に翻弄されてきた。
新型コロナウィルスで命を落とした550万人を超える犠牲、まだ変異を繰り返しながら執拗に生き残りを図るウィルスと、そのウィルス克服に叡智を注ぐ人類との戦いが続いている。

振り返ってみればウイルス戦争一年目の2020年は、個人生活においても激動の一年だった。
1月は父とともにインフルエンザに感染し自主隔離正月でのスタート、
2月、急性前立腺炎で1週間入院、
2月29日 愛犬の小夏が急病で死亡(10歳7日)
1月以来、父の介護が24時間になり、毎晩見守り添い寝する、
6月 父が特別養護老人施設に入所、
8月 左肩腱板断裂が判明し修復手術・リハビリで1か月入院、
9月 退院後毎週二回のリハビリが生活のベースになる。
この間 新型コロナと人類の戦いが繰り返され、いわゆる感染拡大期(第×波)では、自宅に留まる(STAY HOME)が日常になってしまった。

12月第二日曜日に毎年開催されてきたホノルルマラソンは、2020年このような世界規模のパンデミックのため中止となった。2020TOKYOオリンピックはじめスポーツイベントはことごとく中止になったのだから致し方なかった。
8月の肩腱板断裂修復手術後リハビリ中の身にはもし開催されていたとしても出場できる体調ではなく、身勝手な言い分だけど中止は痛手にならなかった。

そしてウイルス2年目の2021年を迎えた。
ホノルルマラソン開催日は12月12日と決まっていたが出場申し込み募集は6月になってからだった、ただしプレ・エントリーという形で。
新型コロナ感染状況を見ながら、公式主催者であるハワイ州・ホノルル市の判断に開催決定が委ねられた、つまりペンディング状態だ。大会事務局としては、日本からの参加者動向を見てみたいとの思惑があったのだろうが、参加者希望者は不安なまま捨て置かれた。
僕は躊躇なくプレ・エントリーした、海外レースに伴う厳格な感染症対策を想定考慮しても参加したいと思った。
2020年大会が中止と決定した時、代替案として「オアフ島民大会」という地元大会への縮小を提案したいと思ったくらいだ。その代替案は、なんとかホノルルマラソンを途切れさせたくないという想いだった。それは長年ハワイのスポーツシーンに僕の人生が彩られてきたことへの感謝の気持ちからだった。

ハワイ島のアイアンマンレース2回、ホノルルトライアスロン5回、そしてこのホノルルマラソン15回目、どれほどこれらのスポーツで僕が生きがいを感じたことか、充実した人生だったことか。今年の大会でその恩返しができると、日本から参加することでその気持ちを行動で表せると信じた。
6月、プレエントリー後、日本らしい猛暑の中、ゼロからのトレーニングを再開した。
10月、正式エントリーの案内があり当然のように即日エントリーした、9月に肩の運動療法リハビリを終了してから少しづつ走る距離を伸ばしてていたところだった。
開催の知らせで10月はさらなるトレーニングに進んだ。
それでも、71歳10か月、1年間のブランク、2019年大会のアクシデントを考えると、不安をいっぱい抱えたままの準備期間だった。

大会を取り巻く環境はそれ以上に深刻になっていた、コロナには慣れてきたものの、一方では感染対策は合理的に厳格になり、アメリカ(ハワイ)入国にはワクチン2回接種証明に加え前日のPCR検査での陰性証明、日本帰国前72時間以内のPCR検査陰性、日本に帰国後14日の自宅隔離(後に3日間の政府施設強制隔離と退所前のPCR検査が追加)、隔離中の健康状態報告、位置確認アプリ応答、などなど市民ランナーにとっては高いハードルが設定されることになった。

例年1万7千人ほどの日本人参加者は200名ほどに減少、完走者も3万名から6000名あまり、僕が前の年に勝手ながら推奨したホノルルローカル大会そのものになった、しかし大会が復活、継続された意義は大きい。
意義ある大会を完走できた誇りをもって、レースの様子を参加者レベルの感想で残しておきたい。
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12月12日早朝4時、いつものようにコンドミニアムから徒歩でスタート地点に向かう、ここ数年地球温暖化の影響なのかハワイでも12月のこの時間帯に寒さを感じなくなった。
大会本部からの事前指示によると200名単位でウェイブスタートする、グループ(想定ゴール時間)別に密にならないように並ぶ、スタートまではマスク着用、一部エイド・ステーションではスタッフがいないので自分で給水するためのコップ持参するように、ゴールしたらマスクを渡すのですぐ着用、・・・等々 感染未終結下のレースにおける厳格かつ正当な規制だったが、
残念ながらこれらは厳格に守られたわけではなかった。

例年だとアラモアナSCあたりから大勢のランナーがひしめき合っていて、自分の走力グループに身を割り込ませてスタートを待つのだが(後から考えれば参加総数が少ないために)グループが形成されることなく無秩序に人の塊がどんどん前に進んでしまう。
しかもグループを案内するスタッフも少ないし、これに気づかないランナーが前進を続ける、結局例年通りの超密なスタート前の人ごみになってしまった。
違うのはその長さがいつもの5分の一(だろうと想像する)であること、そして意外なことに、
いや当然のことかもしれないが多くのランナーが久々に走れる喜びに興奮していることだった。
周りを見渡しても日本人(らしい)ランナーは見当たらない。アメリカ本土からのランナー以上にロコ(地元)の人たちが目立つ、確かに彼らにとっては参加ハードルが一番低い。
そしてランナーたちはほぼマスクをしていない、あの指示はいったい何だったんだろうか、日本人向けだけのものだったのか?
目の届く範囲でチェックしたらランナーの95%はマスクなしだ、この人込み、密の中で僕はパニックになりそうだったが、しっかりとマスクをしたままスタートの合図を待った。
5:00になった、列がすぐに動かないのは200名単位のウェイブスタートを実施しているわけではない、いつものスタート渋滞であることに気づく。
そういえば国歌、州歌斉唱もなかったし著名人ゲストの挨拶もないがこれは感染症対策として合理的だ、一方花火は例年通り盛大に打ち上げられたが僕は例年通り足元に気配り花火を無視する。
スタート地点を越えてすぐ周りが混雑していないことに気づく、いつも5㎞までは肩が触れ合うくらい混雑していたのに。
僕は慎重にスタートする、前回(2019年)5~7㎞時点で左膝が固まってしまい10㎞でリタイアした苦い経験があったからだ。
カピオラニ公園10㎞は121分で通過、8分/㎞ペースはこれまでトレーニングで刻んだペース、問題は25㎞までしか今回は練習していないこと、スタミナが心配だ。25㎞マックスのトレーニングには理由がある。
現在抱えている故障は右膝、右股関節、脊柱管狭窄など危険な爆弾ばかり、練習でこれらを悪化させないのが練習の第一義だった。しかし10月末の25㎞走の後、右膝痛を感じてそれからは練習を控えて休養・治療に専念していた。
12㎞からのダイヤモンドヘッド上りも歩くことなく通過、そのあとの難所である急な下り坂もこなして、高速道路に入る。高速道路上 17㎞地点で身体が重く感じ始める(後から思えばエネルギー欠)、完走するには無理しないこと、素直に歩きに変える。
歩きのペース10分/㎞だと、8時間を超えるゴールになるが、それもあり、今回は途中でリタイアするわけにはいかない、ようやくここまでたどり着いたのだから。
ハワイカイをぐるりと回るコースの25㎞地点、いつもは地区住民のご接待の飲食があるのだがコロナ下では当然禁止だろう、なにも貰えない。この付近でいつも大学の後輩が「都の西北」を流して応援してくれる、ご接待はなくても彼に再会した時のためにすり足のランに変える、こんな時でも見栄張りである。
彼には結局会えることはなかったが、沿道の日本人住民から声をかけられる、「ガンバレ」に「あいよ」で応えすり足が一層快調になる。
このまま34㎞まですり足とはいえ走ることでかなりの時間を稼ぐことができたが、ここ34㎞高級住宅地域で本当に疲れ切ってしまう、走っても10分/㎞になっていたこともあってまた歩きに戻す。
歩いてダイヤモンドヘッドを上り下りするのは苦しい、とはいえ走り出してどこかを痛めてお終いになるのがもっと怖い。ダイヤモンドヘッド2段目の頂上を越えて後は下りのみの40㎞地点から、勇気を振り絞って走り出す。
今は老いぼれたとはいえ、僕はアイアンマンで、サブスリーランナー、
ちょとだけプライドを掲げさせて欲しい、あと2㎞だけ。
そのまま2㎞を(ヨタヨタしてはいたが)走ってゴールした。
ゴール地点で実況しているDJさんが僕の名前、海老名市を何度も大声で叫んでくれた、こっちも大きく手を振り回して答えた、
幸せのゴールだった。一緒にゴールしたロコのご婦人が「地元人並みの声援だね」と声をかけてくれた、・・そう地元ハワイのために走ったんだよ。

シャワーを身体全体に浴びて、完走メダルをラックから自分で取って首にかける、恒例の民族衣装の若者からのお祝いのレイ授与はない。
いつもだと、ここからはツアー企画社の人たちがお出迎えのため通路の両側に並んでいるのだが誰もいない静かなものだ、今年は日本からのツアーは一件もなかった。
とはいえ、完走後の満足感と疲労で座り込んでいるランナーたちはいつもの風景だ、その間を縫って衣類預け所へ、着替えを受け取る。
今回は簡素化のため、あるいは参加者減少のためだろうか 衣類預け同じ場所に完走Tシャツ受け取り所もある。窓口の少年がサイズを訊いてくる、サイズを伝えるとサイズ担当に声をかけ彼が投げてよこし、リレーされて僕に手渡される。
巨大な完走Tシャツテントの周りにサイズごとの長い列ができた今までとは違う、
Tシャツの数も少ないので少数のボランティアで合理的に切り盛りしている。

2021ホノルルマラソンを象徴する、完走Tシャツパスリレーだった、問題は資金。
参加料金が減少し、スポンサーがミズノだけ(JAL は実質の主催者)、いたるところスタッフ不足と物資カットが見られた。
だが、そんなことを気にしなかったのが今回の参加者であり、主催者だった。
セレモニーなし、最小の物資、ケニア招待選手は一人、メインだった日本人が200人、それでも開催する・・・すべてはホノルルマラソンを継続するためだった。
10月まで悩み続けての開催決定、その後のさらなるオミクロン変異の攻勢、スタートラインに立ったランナーは走る喜びとともに一種悟りのような開き直りがあった
・・・何があっても走る・・・
これはおそらく主催者もそうだったろうと思っている…何があっても開催する・・・と。
だからこそ、2021ホノルルマラソンに参加し、完走できたことは僕の一生の思い出になった。

「あること難き今日」とはかけ離れた、2021年12月12日の【今日である】だった。

記:2022年1月26日
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