38.《 Aの日 》 2022/9/28/

文字数 2,489文字




今年高校生になった孫(レイナ)が軽音楽部でバンドデビューした、8月の文化祭でのことだった。
「いきものがかり」出身校だけあって部活として多くのバンドが活動しているらしい、文化祭自体は残念なことにコロナ渦のなかで入校制限があり祖父の見学は叶わなかったがヴィデオを拝見したことで満足している。
だが、困ったことに孫が演奏している曲が呑み込めない、全く分からない、いつの時代にもある世代断絶を目の当たりにしたのだった。おそらく、いや間違いなくレイナたちの楽曲を僕は歌うことはできないし、価値を理解することもできないだろう。

レイナに、「僕もバンドをやってたよ」と話したらマジ超驚いていた、これも年寄りへの偏見の如実な例証である。
年寄りが(たとえ身内であっても)、バンドをやっていたという青春の日は若者には想像しずらいようだ。祖父にも青春があったこと、自分も同じDNAを持っていることはすっかり忘れているみたいだ、そういう僕も昔はそんな風に思っていたに違いない。

その昔ばなし・・・
僕の十代は1960年~1969年、世界的フォークソングブームだった、そこには長引くベトナム戦争への反対意思表明という政治メッセージが多く含まれていた。戦後日本は政治経済のみならず文化面においてもアメリカ追随姿勢は揺るぐことなく、当然のようにほぼ同じ時期に日本でもフォークソングブームを迎えた。

1970年の日米安保条約改定を控えて反戦・フォークソングが若者を魅了していく1969年、僕は上京し大学生になる。
一人住まいではなく規模の大きな学生寮に入った、同学年30余名との交流の中でフォークソングバンドを結成したのは、歴史の流れからしても自然だった気がする、ありきたりといえばありきたりだけど。
ギター好きの友人たちにバンド加入を誘われたのは、僕が大学でグリークラブに所属していたからだった。当然ヴォーカル担当だと思ったが、それまでギターなど触ったこともなかったため、ギターを抱えない丸腰の半端な臨時メンバーだった。
そこで姑息な解決法を思いついた・・・「ベースをやるから正式メンバーにしてくれる?」
当時、今もそうだろうがウッドベースは高価なものだった、持っている仲間は一人もいなかった。
バイトで稼いで・・・という意気込みは立派だったが、1年生の夏休み帰省中いっぱい働いたが到底楽器の費用には届かなかった。最後には親に泣きつき、多めの不足分を立て替えてもらいベースを手に入れ それを抱えて東京に戻った(そういえば未だに返済はしていない)。

お話は「フォークソング・バンド」に立ち戻る。
晴れてメンバーになったバンドは、「フォルク・アマーモス」という名で、正統派を目指していた。
その時 僕らが正統派だと信じていたのは、PPM(ピーター・ポール&マリー)とブラザース・フォア、彼らのコピーがバンドのメインだった、オリジナル曲もあったのだが今思い出せないくらいだから大したものではなかった。
日本においても高石ともや、フォーク・クルセイダーズらがマスメディアを通じてメジャーになっていたころだった。
マチュア、それも音楽面での基礎もない僕らは、自分たちの学生寮祭、友達の学園祭での出演が精いっぱいだった、むろんギャラは出なかった。
ただ、フォークソングブームの真っ只中だったので、どこに出演しても歓迎され女子たちからの評判も良かった。出演後 主催者からねぎらいの夕食が楽しみだった、今では青春の1ページを飾る淡い思い出だ。

卒業直前に結婚し渋谷のアパート暮らしだった僕には、ウッドベースは文字通りお荷物だったので実家で保管してもらった。
大枚をはたいておもちゃを子供に買い与えた親にしてみれば、僅か3年後に出戻ったウッドベースは文字通りも精神的にもお荷物だったに違いない。
時は過ぎゆき20年が経過した1993年、母の死後父が僕の住んでいる海老名市に移ってきた、その引っ越し荷物の中にウッドベースがあった。
それは父の部屋に入りきれない荷物と一緒に、長い間コンテナー倉庫に預けられたままになっていた。
そこからまた30年近くが過ぎた2022年、僕はまたウッドベースを引っぱり出す。
レイナとの会話で何かを思い出したかのように、もう一度ウッドベースを触りたくなったのが本心のようだ。
実は 働き止めした7年前、「ウッドベースの基本」、「ジャズベース・ランニングノート」という2冊の教則本を買って本棚の隅っこにずっと置いてあった。
いつの日かランニングができなくなった折には、最後のお楽しみとしてウッドベースをもう一度弾く・・・その用意だった。
最後のお楽しみ…という悲壮な決意にどうしても踏ん切りがつかなかった近年だったが、これで一歩踏み出すことになった。

50年ぶりに触れるウッドベースは記憶にあるよりずっと重かった。
こいつを抱えて新宿駅・歌舞伎町を往復したのが嘘のようだ、50年の歳月は残酷だった。
実質3年間しか使用しなかったので、ボディに傷もへこみもない、埃を拭きとると木目が以前のように艶やかに光る。
チューニングギアに潤滑油を施しまずは調弦、しかし調弦の基本すらすっかり忘れ去っているので、さっそく買いおいていた教則本に頼る。
幸いグリークラブ当時の音叉、A(アー)が手元にあるので第3弦をA(アー)に合わせる。
ポイントマークは当時からつけていなかったので、ほかの弦の調弦に、ハタと困ってしまう。
50年前の記憶であれこれ調弦するが、ほかの弦との調整ができない。
基本に戻って娘のピアノを拝借して各弦の調弦を試みるが これまたてこずる、結局ウッドベース再開初日は調弦だけで終わってしまった、それも頼りない調弦に。

翌日娘に相談したら、あっさりとデジタル式のチューナーを貸してくれた。
音に合わせるのではなく、チューナーが弦の音をデジタルメータで表示してくれる、それに合わせて弦の張りを調節する、なるほどこれは簡単だった。

今ではこの方法が当たり前だとのこと・・・・50年前から戻った浦島太郎の気持になった。
「A(アー)A(アー)」 と溜息をついた「今日である」。
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