7.《 看取りの日 》  2022/3/2

文字数 4,182文字




何を話したらいいのか?
眠っているのか眼を開いてはくれない父。
呼びかけても応えてくれない、眠っているわけではないことは僕にもわかる。
ケア・マネージャーと看護師さんがベッドの父をこちら向きに位置を変えてくれる。
 
「お父様にお会いしますか? 今オミクロンの感染予防で看取り中と言えども面会はできないんですよ、今日はいいですけど」と言われて部屋に入った。
父の腕を撫でる顔をさする、僕の掌はいつも冷たいので驚いて目を覚まさないかな。
何か話をしておこう・・・

《 ハワイには何回も行って楽しかったね、この間一人で行ってきたよ、写真見てくれた? 》
《 そういえば、オヤジとは結構海外旅行してるよね。満州、香港、済州島 楽しかったね 》
《 トライアスロンでいろんなところ行ったな、宮古島、佐渡、徳之島、小豆島 》
《 佐渡でNHK撮影の時も一緒に来てくれたよね、ありがたかったな 》

父は目を固く瞑ったまま、聞こえているのかどうかもわからない。
15分が過ぎて僕は部屋の外で待機していたケア・マネージャ―にお礼を述べて
特別老人養護ホームを後にした。

2022年2月8日、父がお世話になっている特養から電話があった。
今 父は98歳と10か月、昔ながらの「数え年」でいうと100歳、百寿(ももじゅ)という超高齢者だから、毎回特養からの電話があるといつもドキドキしながら電話を取る。
これまでも、どこそこで転倒した(けど大きな怪我はない)とか、もろもろの体調変化の連絡があった、特養ならではのきめ細かい対応だった。
高齢者であり、だから元気なわけもない父のことは2年間のコロナパンデミックの中で簡単に面会もできないまま歯がゆいくらいの心配の種になっていた。
入所したのが2020年6月だからそれ以来ほとんどの期間面会禁止だった、部屋で父と会ったことは一度もない。唯一許可された面会は施設ロビーで天井からつるされたビニールシートを挟んでのものだった、マスク着用は必須だからスムーズな会話とはいかない、もっとも超高齢の父が僕のしゃべる内容を理解してるかどうかも怪しいが、父の顔を見ることだけはできた。

しかし、この日の電話は深刻だった。
看取り介護の説明と取り決めのための訪問を促された、以前よりこの件は充分承知していた、
とうとうその段階に来たと思った。
施設嘱託医師、専属看護師から説明を受け「看取り介護」に移行する旨の書類を作成した。
念のため付け加えると、看取り介護とは医療行為を一切控え、自然に命が消えるのを見守るということ。
その為のサービス計画書はじめ同意書、確認書を取りかわす。
そしてその日、「お父様にお会いしますか?」 
突然看護師さんから部屋での面会が許可された。

父の看取り介護が始まった2月8日から、いろいろな物事が不吉な音を立てながら動き出した。
看取り介護は、週単位、日単位、時間単位で対応が細かくきめられている、
「父はどのレベルでしょうか?」 と質問した、
「まぁ 今は週単位ですかね」 とのこと・・・そうとしか答えられないだろうと思った。
特養からのアドバイスとして、事前の①葬祭社選定 ②エンゼルケア有無 が伝えられた。
いずれもその時になって慌てることの無いようにとの配慮だった。
そう告げられて初めて父の死に僕は真正面から向き合うことになった、肉親というものは厄介なものだ。
せっかくのアドバイスに従って、葬祭社に電話相談してみる。
親切に相談に応対してくれ、最後にお得な互助会システムも教えてくれる。
ここでも、父が死に直面していることを否が応でも認めざるを得なくなる、家族葬セットに決めた。

2月12日、看取り介護5日目、特養から電話が入る。
覚悟はしているとはいえ心臓がドキドキし、軽い震えも始まった。
「酸素濃度も上がらず、ゴロゴロという呼吸音になってきました、もしお会いしたい方がいらっしゃるのならお早めに」
最悪の知らせではなかったが、身体の震えはなかなか止まらなかった。
「このような状態になりましたので、いつでもご連絡してお越しくだされば面会できます、
ただし15分間だけです、申し訳ありませんが」
僕は一人っ子、唯一の肉親、僕が会いに行くことにした。
部屋に入る、大きな声で「見舞いに来たで、元気にしよるんな(してる)?」 讃岐弁で呼びかける。
看護師さんと二人で父の体を僕の方に向ける、父が手をさしのべてきた、握り返す。
前回2月8日と違って目を開いていて僕を認識している、挨拶の代わりなのか手を差し上げるほど力もあるみたいだ。
手を握りしめたまま、少し撫でながら、前回と同じことを繰り返し話しかける・・・
ハワイ、香港、旧満州、済州島、宮古島、佐渡島、徳之島、旅の思い出を話す、父が楽しそうに思い出している…ようだ。
父の人生をダイジェストで話す、小説「昭和九十五年」を執筆する際に父の自分史資料(その自分史は完成しなかったが)を参考にしたので、父の略歴は頭の中に入っている。
早稲田予科、赤紙招集、佐世保第二海兵団、館山海軍砲術学校、佐世保空襲、敗戦と復員、
警察官任官、駐在所での母との出逢い、結婚、高松北署はじめ各署転勤、最後の奉職地は栗林公園前交番だったこと。
焼き鳥屋、スパゲッティハウス、イタリアコック研修・・・そして母の死後 海老名に来たこと。
喋り通しで25分、25分で僕の知っている父の人生を走馬灯のように再現してみた。
うっすらと父の右目から涙がこぼれた、僕はハンカチでその涙をぬぐいポケットに大切にしまった。

13日から毎日15分だけど父に会いに行く、13日にうっすらと眼を開けてくれたがその後はずっと眠ったままだったが。
15日夕食時に特養から電話、しっかりと覚悟をして電話に出る。
「今日、2階(父の居室のある階)でコロナ患者が確認されましたのでご家族の皆様にご連絡しております」・・・少し息を吐いて落ち着く。
「第6波」オミクロンステインは感染力は強いものの重症化しないという怪しげな根拠の中、感染拡大の一途をたどり、当然の結果として高齢者の死亡が急増している最中だった。
全国で高齢者施設内でのクラスター感染がニュースになっていた、密着が必要な介護作業に密を避けることは本来できないことから、施設内感染は避けられないだろことは十分理解していた。
実際に1月中旬から、施設館内立ち入りが禁止となり一切の面会は禁止になっていた。
それでも感染発生は阻止できなったようだ。
「看取り介護中の父との面会はどうなるのですか?」 
「施設としての結論が出ていませんので、明日お手数ですがお問い合わせください」
施設側はその時入居者家族への連絡に忙殺されていた。

新型コロナ感染拡大初期のころ、家族の死に立ち会えなかった悲劇はTVニュースで何度も刷り込まれていたので、封鎖になった施設内での面会を期待することなく2月16日朝、電話で問い合わせする。
「防護服を着用していただければ面会できます」とのことだった。
パンデミック始まりから2年が経過して、人類側も合理的対応を選択するようになっていた。
有難いお許しをいただきそのご厚意に甘えることにする。
施設建物入り口ではこれまでと同じチェック、体温検査、手指消毒、マスク確認を済ませ、スタッフに案内されて2階へ、
エレベーターから降りると、エレベーターロビーから4方向へ進む廊下入り口が棚・段ボールなどで塞がれている。そのバリケードをいったん取り除いて居室スペース廊下に入る、とそこで防護服一式を着用をする。
手荷物はビニール袋に入れか固く閉じる、ガウンは肩・背中・胸の三か所で固定するがこれは看護師さんが手伝ってくれた。
ディスポグラブをつけ、N95マスクをつけその上から自分のマスクを重ねる、ゴーグルをかけ
ヘアキャップを深く被る。
ひとつ着用する度に手指を消毒する、消毒液を浸したカーペットの上でスリッパをこする。
そして父の部屋に入る。

高齢者施設内の環境は常に一定に保たれていて冬の寒い時期には26℃、これまで面会の際には上着を脱いで父と話をしていたが、今朝は上着の上から防護服一式を着用しているので、暑い。
父は目を覚ます様子はない、毎日どんどん顔の容積が小さく落ちくぼんできているのは仕方のないことだが、「人生はオシャレだ」が口癖の父が可哀想で仕方がない。
N95と不識布マスクで呼吸も苦しい中で声を大きくして話しかける、我がファミリーのミステリーとなっている微研(大阪大学微生物研究所)の家賃受け取り拒否エピソードを父に話しかける(これは小説「昭和九十五年」のテーマ)、
いつものように 「でも、やっぱりようわからん話やな」で終わりにする。

部屋の外で待っていてくれたスタッフに声掛けして退出案内をお願いする。
汚染地域2階通路は一方通行になっている、ぐるりと中央のラウンジを迂回してちょうど入ってきたところと反対側の廊下の端で、防御服を脱ぐ、ガウン・キャップ・手袋・マスクはすべて外側に触れないよう内側から畳み込むようにして脱ぎ指定のゴミ箱に入れる。
新しいマスクを頂戴してバリケードを取り除いてエレベータホールに戻った。面会は15分だが、そのために施設のスタッフ一人が30分ほど付き添うことになる上に、僕自身レッドゾーンに身をさらすことになり、また貴重な防護用資材や経費を費やすことになる。
今 全国の高齢者施設でこのような戦いが勃発しているのに違いない。
僕が見たのはまさに戦場だった、高齢者介護施設内での戦いだ。
毎日面会するのはいくら看取り中とはいえ家族の傲慢としか思えない。
「面会は一日おきにしよう」と決めた。

2月17日 心の中では後悔しながらも昨日決めたように面会を控えた、父が僕の来るのを待っているかもしれないという後悔だ。
いや、もう父にはそんな判断力はないはずだという気持ちも一方にはあった、
複雑な思いが交錯した一日になった。
深夜零時前、左脚が痒くて眠りから覚めた、その時携帯に電話が入った。
「しまった、」とっさに思った。

防護服を着こんで父に会った。
「きのう ぎょうさんげな(大袈裟な)格好で見舞いに来てくれたんで悪いなと思った、
看取りさせんで悪かったな」
「また明日来るで…言うたのにこっちこそ悪かった、じゃあゆっく休んでね さようなら」

「今日であること」悲しき 看取りの日。
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