第87話

文字数 942文字

「育った環境が違うから、かも」

「育った環境?」

 雫はどこか困ったような笑みをうかべて、そっと頷いた。

「貴大さんの纏う空気や佇まいが愛されて育った人、特有のものだから。そこに強く惹かれるくせに……。同じくらいの分量で引け目も感じちゃってる気がする。どうしてだろうね」

 そういって俺のまえに両膝をつくと、同じ目線になって、こちらをじっと見てきた。

「遊は?」

「え?」

「遊は真琴といても、そんな風に感じない?」

 少し伸びた前髪の隙間から、俺を見つめてくる瞳は、きっとそうだろうという確信と、そうじゃないかもしれないという考えに揺れているように見えた。しばらく考えたあと、ゆっくり口を開く。

「以前はそんなふうに思ったことはあったかもしれない」

 時間をかけた割には大したことは言えないから苦笑してしまう。ただ本当のことだった。それがすこしづつ変わっていったのだけど、うまく説明できない。雫は視線を下げて目線を逸らして微笑んだ。

「ふうん。そっか」
 
 雫はそういった後、しばらく何かを考えるように身動きせずにいた。

「雫?」

 俯いている顔を覗きこもうとした時だった。いきなり顔をあげると、そのままの勢いで俺に抱きついてきた。首にギュッと回された腕。身動きがとれないほど強い力。おい、と言ってそれを解こうとしたけれど、しっかりしがみついていて離れない。

 まるでまだ目がよく見えていない産まれたばかりの子猫が、母猫の乳をさがして鳴いているような必死さに、そのまま動けなくなる。ゆっくりと耳元に唇がよせられた。

「ごめん。もう少しこうさせてて」

 震えるような掠れた声。さっき電話をしてきたときの声にそれは少し似ていて、反応できなくなった。数秒か数分か。長さがよくわからないこの時間を終わらせたのは、着信を知らせる俺のスマホの振動だった。

 部屋の空気が変わる。それが合図になったように雫はゆっくりと俺から離れていった。パンダ顔のまま、いつもどおりの雰囲気で笑って言った。

「……なーんて、ね。ごめん、電話でて。私、シャワー借りるね」

 そういった後サッと立ち上がり、小走りで部屋から出ていった。バタン、と閉められた扉。雫の気配が消えた部屋にスマホの振動だけが響く。ポケットから取り出すと、真琴の名前が表示されていた。






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