第130話

文字数 850文字

 しらない年上の女みたいな色気と、泣き出しそうな子供っぽさが同居しているその表情。息を詰めるようにみつめてしまっていた。真琴のことをまだまだわかっていないのではないか。彼女の唇が離れた瞬間、狂おしいほどにそう感じた。

 一方で冷静なもう1人の自分はどこかで理解していた。あれは、真琴が俺たちの住んでいた小さな世界から飛び立つ儀式だったのだ、と。それでもあのキスの余韻は、炭火の炎みたいに、俺の内側でまだじくじくいいながら燻っている。もう1年経つというのに。
 
「……じゃあさ」

 不意に落ちてきた真面目な声。物思いから引き離されて隣をみると、憂いを無理やり笑みに溶かし込んだような顔をした柳瀬が俺をみていた。

「たとえば。その相手が男だとしたら? 細胞が沸騰するくらい、惹かれたりするのが男だったらどうする?」

 柳瀬は淡々としているようで、どこか緊張している空気を孕んでいた。たぶんその問いは、生半可な気持ちで出されたものではない。俺を信頼したうえで、彼の存在意義を賭けて口にされたものだと感じた。

 柳瀬も人にはみせないだけで、奴の世界(small warld)のなかで葛藤し、もがいているのかもしれない。もしかしたら俺以上に。心の中にある強ばりが少し緩む。自然に笑みが溢れた。

「細胞を沸騰させてくれるなら、男でも女でもいいんじゃない。そんな存在、滅多にいないから」

 柳瀬はじっと俺をみつめたあと、ゆっくりと瞳を緩めた。

「お前もいるの? そんな存在」

 一瞬言葉に詰まった。けれど本音で話している人間には本音で向き合う。

「……いるよ。たったひとりだけ。でも触れられないんだ」

 誰にも言えなかった言葉を口にすると少し気が楽になる。それを初めて知った。柳瀬はどこか労るような視線をむけた後、ぽんと俺の背中を叩いた。

「なるほど。高木でも簡単にいかない事があるんだな。なんだか安心した」

「そりゃあるよ。色々うまくいかないことばかりだよ」

 柳瀬も心を軽くしたかったのかもしれない。彼も憑き物が落ちたように微笑んでいた。何気なく視線を上に向ける。

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