第84話

文字数 955文字



「遊、助かったよ。ありがと」

 部屋について、雫が淹れたコーヒーで一息ついたあと。ようやく笑顔が戻ってきた。とりあえず安心したのだろう。

「たまたま今日バイト休みだったし」

 雫がいつものように、細心の注意を払いながらいれたコーヒーを口に含む。雑味のないその味わいに、やっぱりコーヒーを淹れるのだけは、こいつは敵わないな、と小さく笑う。そんな俺を見て、雫も困ったように笑った。

「ちょっと……動揺しちゃった」

 ようやく逃げられた。そう思っていた父親を視界に捉えたのは恐怖以外の何ものでもなかったのだろう。その笑顔はまだ、どことなくぎこちない。

「で、これからどうすんの? 」

「うーん。なんとかするよ。とりあえず引越ししないと。いきなり出費だなあ」

 雫はなんとかして欲しい、とは言わない。基本1人でどうにかしようとする。俺もそうやって生きてきたからわかる。できるだけ人に頼りたくないのだ。さっきみたいに弱りきって電話してきたのは、かなりのレアケース。そして本当にヤバい時、だ。

「引っ越しするのも金、いるだろ? あんまりないけど、少しなら貸せるよ」

「……ありがとう。それはなんとか出来ると思う。deep blueのMVのギャラ、はいったから」

「あ、はいったんだ。タイムリー」

 そういうと雫は、照れたように笑った。

「ホントよかった。あのときオーディション受かってなかったらお金、全然なかったよ」

 雫は自分の手柄や、優れたところを話すとき、どこか困ったような顔をする。そんなトコはこいつ美点でもあり、欠点でもある。もっとアピールすれば良いのに、といつも思う。

「それならできるだけはやく引っ越ししたほうがいいな。また父親がきたら面倒だし」

 俺の言葉に頷いた雫の表情が、微かにこわばる。

「うん、もうあいつとは関わりたくないんだ。金輪際」

 吐き捨てるようにそういった雫の横顔。まるで瞬間冷凍したみたいに無表情だった。それ以上父親のことを聞いたら、雫がパリンと割れて粉々になってしまいそうな気がして。さりげなく話題を変える。

「引越しするまであの部屋、帰んないほうがいいよな。今日は俺んとこ泊まっていいけど、引っ越しまで泊めてくれそうな友達いる?」

 男友達みたいな存在とはいえ、雫は一応女。さすがに連日、泊めるわけにはいかない。

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