第116話

文字数 981文字

「真琴。顔をあげて」

「ちょ、ちょっと待って陸、あの……」

「真琴って昔からそうなんだよ。さりげなく煽ってくるの、ひどいよな」

 ちょっと意地悪なその言い方に、反射的に顔をあげてしまった。

「煽ってなんかいないよ!」

 陸はくすりと笑って、私の片頬を手のひらで包んだ。

「はい、顔あげたね」

 最近おなじみの、どこか皮肉っぽい口調。けれど目の前でみるその表情は、口ぶりとは逆で、まるで泣きそうな顔をして笑っていた。

「陸……」

 言葉がでてこなくなる。こんな顔をさせているのは、間違いなく私、だ。

「キスしてみて、真琴」

 絞り出された小さな呟きは、私の鼓膜を震わせて、身体の内側に水滴みたいにおちていく。

 はっきりわかった。陸のことはなにがあっても嫌いになれない。まるで身体の一部みたいなひとなのだから。でもそれが恋愛感情なのかって聞かれたら、どう答えていいのかわからない。こんなふうにドキドキさせられる男の子は、遊さん以外には陸しかいない。

 それでも遊さんに感じる感情とは何かが違う。遊さんは鮮烈なほど冷たくて澄んだ水みたいで。一緒にいると、細胞全てが一気に覚醒させられるような。どうしていいかわからないほど強く、勝手に、心が遊さんに向かって流れていってしまう。

 陸は逆かもしれない。傍にいると陽だまりにいるみたいで、穏やかな気持ちになれて。ずっと傍で微睡みたくなる。でもだからこそ、この居心地のいい場所にずっと居てはいけないのかもしれないと、どこかで感じてしまう。ただ間違いなく言えるのは、陸もわたしにとってとても大事な人だ。そんな人に、こんな顔をさせたくない。

 私はゆっくり顔を近づける。陸が大きく瞳を見開いた。自分でキスしてっていったくせに。浮かんでしまった笑みがほんの少し、私の唇を揺らす。軽く背伸びをして、陸の頬にそっと唇を押し当てた。

 その瞬間、私のなかであのときの映像が蘇った。雫さんが遊さんの頬にキスしていたあの時。雫さんも遊さんのことが大好きで。遊さんにとっても、雫さんは大事な人なのかもしれない。私が陸のことを好きなように。

 それがすとん、とココロにおちてきて。私はなんだか泣きたくなる。何秒経ったのかよくわからない。そっと唇を離す。陸は私を凝視したまま微動だにしなかった。ほんの少し。涙が滲んでぼやけてしまった陸に笑いかけた。

「陸。……ごめんね。大好きだよ」

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