第90話

文字数 728文字

 遊さんは雫さんより、さらに10センチくらい上背がある。彼女を見つめるその視線の角度にすら嫉妬してしまう。私は雫さんみたいに背も高くないし、スタイルだってよくない。こんなに絵になる二人ってなかなかいない。

 見たくないのに、それでも私の瞳は彼らから引き離すことができない。遊さんは微笑みながら、雫さんの頭をポンポンと撫でるように叩いた。

 あの暖かい手のひらは私のものなのに。

 そう心の中で叫んで、唇を噛み締めた。違う。遊さんのものだ。遊さんの意思で動く手、なのだから。まるでスローモーションみたいに雫さんの細い両手が遊さんの首にまわされる。あっと言いそうになる声を飲み込んだ。

 それから彼女は軽く背伸びをして、遊さんの頬に、そっと唇を押し当てた……

 それ以上は見ていられなかった。心が拒否反応を起こして、勝手に体が動いていた。後ずさって振り返り走り出す。

 一心不乱に走った。涙で滲んだ街の光が、尾を引くように後ろに流れていく。普段はうるさいと感じる街の喧騒が耳に入ってこない。聞こえるのは、背中で上下に揺れるリュックの振動とわたしの心臓の音、ハアハアという息遣いだけ。

 とうとう息が続かなくなって、立ち止まると、もう駅前にたどり着いていた。涙が一粒、ぼとりと頬を滑り落ちそうになったから、手の甲でごしごしと拭う。はあとひとつ吐息をついて、頭を空っぽにしてあるき出した。電車に乗り、いつもの駅で降りる。

 先程みた光景が頭の中に浮かび上がりそうになると、無理やり消した。今、思い出したら、沢山の人がいるなかで泣いてしまいそうだから。

 何も考えない。何も。

 自分にそう言い聞かせて、急いで家への道を歩きだした時だった。きゅっと腕を掴まれた。ハッとして振り返る。
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