第85話

文字数 881文字

 雫はまじまじと俺を見つめたあと、ふと静かに笑みを零した。

「遊、優しいなあ。でもさ、私がココに泊まったら真琴が嫌がるよね」

 真琴とはまだ、付き合っているわけじゃない。けれど、雫を部屋に泊めることが真琴にとって、気分がいいことじゃないのは間違いないだろう。

「お前、行くとこあるの?」

「まあ、なんとでもなるよ。お金もあるしさ」

 キュッと片眉をあげた、ふざけた表情を浮かべ笑う雫。俺に電話をしてきたくらいだから、他に頼れそうな友達もいなかったはず。しかも父親を見た、と話した雫の声は震えていた。そういう類いの恐怖はすぐに消えたりしない。あの時の恐怖はまだ、雫の中にあるはずだ。それを見せないようにしているだけだろう。

 そんな状態で1人で放り出すわけにはいかない。俺は大きくため息をついたあと、雫をまっすぐに見た。

「とりあえず今日はココにいろよ。1人でいるのも不安だろ」

「……遊」

 笑みが空気に溶けていくように次第に消えて、雫は放心したように俺を見た。

「怖かったんだろ。いいよ、ムリしなくて。お前は友達なんだから。遠慮するな」

 雫はじっと俺を見た後、くしゃりと表情を崩し、その大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙をこぼしはじめた。それからテーブルの上にある俺の手をぎゅっと握りしめた。

「うん、怖かった。すごく怖かったよ、遊。また昔みたいになったらどうしようって……怖かった」

「……そうだな。よく耐えた」

 どこか幼い頃の自分と重なる雫の姿にそっと頷く。それが合図になってしまったように、雫は肩を震わせて俺の手をにぎったまま、嗚咽しだした。一心不乱という言葉がぴったりくる、子供みたいな泣き方だった。

 掴まれている手とは反対側の手で、ティッシュの箱をテーブルに載せてから、手をぽんぽんと叩いてやる。うっ、うっと苦し気に漏らしていた嗚咽が次第に収まっていく。しばらくして肩で大きく息をしたあと、雫はすごい勢いでテッシュを引き抜いて、鼻をかみ、ぐしょぐしょになった顔を拭って笑った。

「あー、なんかすっきりした」

 照れたように笑ったその笑顔があまりにも無防備だから、つい笑ってしまった。
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