第129話

文字数 851文字

 「高木」

 落ち着いた低い声が、上から降ってきて、物思いが断ち切られた。視線をあげる。同じクラスの柳瀬だった。奴は穏やかな笑みを浮かべて俺の隣にすわった。彼は一浪していて、ひとつ年上のせいか、雰囲気が落ち着いている。それでいて気楽な会話がしやすくて、一緒にいることが多い。

「また一人で、こんなとこにいた。女子がお前のこと、探してたぞ。えーと田中さんだったかな」

「ああ、そう? あとで声をかけとくよ」

 たぶんレポートのことだろう。授業の前に話しかけられていたのを忘れて、さっさとここに来てしまった。ふと視線を感じて横をみると、柳瀬が苦笑しながら俺をみていた。

「高木ってマイペースだよなあ。そういうところもまた、女子にモテる理由なんだろうけど」

「なにそれ。モテないよ」

「いや、さっき俺が教室をでるときも女子たちが集まって、お前のことを噂してたからさ。すげえなって思って」

 口ではすげえな、といいながら、柳瀬はちっとも羨ましそうじゃなくて、おかしくなる。彼のこういうところも気に入っている。

「悪口だな、それ」

 話題にされている内容はだいたい想像がつく。大学にはいってまだ一年たっていないのに、告白された流れで同級生の女の子ふたりとつきあって、早々に別れてしまったから。

「まあ悪口といえば悪口なのか。高木くんって愛想はいいけど、本心がわからない、みたいな話だったし。でもそれって裏を返せば、お前に興味津々てことだろ」

 その言葉に苦笑するしかない。そんな俺を柳瀬は俺を静かに観察するように眺めたあと、苦笑した。

「お前が夢中になる女の子ってどんなコなんだろな」

 ベンチの上に置いた生物学の教科書をとりあげて、パラパラとめくってみる。開いたページに、脳細胞の写真があった。

「会うと脳細胞が沸騰するような、そんな感覚になれるコ、かな」

 冗談めかしてそういったのに、不意にあの時の記憶が立ち上がってきた。真琴にキスをされた頬に手をあてる。細胞ひとつひとつが、沸き立つようなあの感覚。それがまだ、ここに残っている気がする。
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