第67話 嘆きの声
文字数 3,733文字
もうまもなくだと、背中に翼を付け両足に闇を纏う。
そして、淡い紫の瞳が暗く染まったのを見て――両手も闇で覆った。
「――いきますっ!」
エリスの手を放して、竜に向かって宣言する。
氷を砕く勢いで踏み切り、空高くで翼を広げ――
「でぇぇぇやぁぁぁぁっ!」
そこから急降下。
落下の勢いで大剣を振るい、蛇に似た竜の頭を叩き斬る。岩みたいに硬そうな鱗だったが、手ごたえはなかった。
人間と同じように斬れた。
――果たして、竜の咆哮。
今までの声が嘘のように、醜く大きな音を巻き散らす。それでもまだ、身体は倒れない。
ネレイドは氷の上には着地せず、空中で静止して様子を窺う。
「急げよっ! 馬鹿剣がおまえを食いたくてうずうずしてるぜっ!」
初代の喚起。
黒い刀身に赤い紋様が閃く。脈動するように、浮かんでは消える。
「……なら、喰わせてやる、といい。やはり、人間の器に収めるには、我が、魔力は……大きすぎる」
辛そうな竜の要望に応えて、ネレイドは再び飛翔する。今度はその身体に向かって、切っ先を突き立てた。
再び、咆哮。
つい顔を顰めてしまうほどに、聞き苦しい。
「――まだかっ?」
初代が吠える。剣は身体に刺さったまま、レヴァ・ワンは竜の魔力を奪っていた。
「もう……よい」
聞き届け、刃を引き抜こうとするも上手くいかない。
「こらっ! さっさと放しなさいっ!」
ネレイドが怒鳴りつけ、力任せに引っ張ってやっと、レヴァ・ワンは竜の身体から離れた。
「まったく……このお馬鹿さんはっ!」
興奮しているのか、刀身が脈動を早める。正直、衝動的に捨てたくなるほど気持ち悪い。生温かくて、直接心臓に触れているかのよう。
「あっちは上手くいっているようだが、だいぶ力は削がれたな」
こちらの気持ちを汲んでくれたのか、初代は大剣から羽虫型に転じた。
「竜の精神は無事エリスの身体に移って、今は馴染もうとしている。が、ぎりぎりだな」
「仮にもレヴァ・ワンは人間の為に創られた代物ですから、私たちのようにはいかないでしょう」
ずっとしがみついていたのか、サディールの声が頭の上からした。
「どう違うんですか?」
「単純に言えば、私たちは器と依り代を分けることができます」
レヴァ・ワンが魔力を収める器で、ネレイドが世界に顕現する為の繋ぎであり依り代。
「そして、精神を留めておくには相応の魔力が必要なのですが、これが多すぎると器が壊れてしまう」
そういう意味で、初代はぎりぎりと評した。
「以前、お嬢さんは魔力のある人とない人の違いを尋ねられましたね」
「えーと、いわゆる魔に属するモノを始祖に持っているか、魔力に耐性を持った結果ですっけ?」
「その通り。前者であればもともと人間は魔力を所持しておらず、後者であれば人間にとって魔力は毒ということになります」
どちらにせよ、多量の魔力を収められる道理はない。
「ですから、竜は力のある者を依り代に求めただけでなく、我々
「あっ、そっか。だから、ロリエーンさん? が来た時に求めなかったんですね」
その時、大きな音がした。
崩れ落ちた竜の身体を支えきれず、湖の氷が割れてしまったようだ。
そうして、壊れた器は湖の底へと沈んでいく。おかげで、水面には大きな氷片が幾つも浮いた状態になっていた。
「エリス、大丈夫かな?」
「お嬢さん、中々の鬼畜っぷりでしたよ。上から見ていて、私は楽しめました」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。私はただ、言われたとおりにやっただけなんですから」
奇しくも、ネレイドはこれまでの道中で限界の意味を知る羽目となった。それが泣くことも懇願することもできない状態であると、先祖たちに教えられていた。
「まだ、行かないほうがいいんですよね?」
エリスは砕けた氷の上で蹲ったまま。
白い息が見えるところからして、荒い呼吸を繰り返しているのだろう。
「レヴァ・ワンが落ちつくまでは待ったほうがいいな。今行くと、エリスごと殺しかねん」
初代の言葉なのに冗談と思えなかった。
現に背中の黒い翼は停止という命令を聞きながらも、意味もなくバタバタと羽ばたいている。
「おかげで、だいぶ無茶ができるようになった」
「そういえばレイピスト様は人型には?」
「なってどうする? 面倒をやらされるだけじゃないか」
「……そうなんですか?」
サディールに訊いてみると、
「私が人型になるのは街の人の解放や買い出し、情報収集が主ですね」
初代の言う通り面倒だらけだった。
「形だけ人間にしてもな。食事だけなら、この状態でも問題ねぇし」
「食欲だけは、レヴァ・ワンにも理解できるようですからね。まぁ、この剣に性欲を理解されても嫌ですけど」
空でしょうもない話をしている間に、下では変化が起こっていた。
エリスが咆哮を上げたと思ったら、その背中に竜の翼が弾けるように現れる。次いで、両腕と両足も竜のモノになっていく。
「どうやら、お嬢さんの印象が強かったようですね」
異形の四肢に翼。
まさにネレイドのレヴァ・ワンと同じ構成だった。
「でも、私に尻尾はないもん」
そのどれもが青黒くて、硬そうな鱗を纏っている。見た目だけなら、ネレイドよりもずっと恐ろしい。
「来ますよ」
サディールの言った通り、エリスが飛んできた。
「礼を言う、可憐なる赤髪のネレイドよ」
と思ったら竜だった。
エリスの声を本人よりも上手く扱っている。勇ましさがなりを潜め、より可愛らしい。
「どういたしまして。エリスは?」
「淑やかなる銀髪の少女は眠っている。疲れているようだ。しばらく、休ませたい」
「せっかくの自由なのに、いいんですか?」
「今回のことで思い知った。そう簡単に人へと移ることはできない」
「そっか。じゃぁ、村まで飛んで行きましょうか」
レヴァ・ワンを大人しくさせる意味でも、魔力を消費しておきたかった。それに動物の気配も、植物の色彩もないこの山は早く出たい。
先祖たちも異論はないようで、異形の翼と四肢を持つ少女たちは空の旅を楽しむ。
「山も森も、随分と小さくなったものだ」
景色を見渡して、竜が呟く。
「この世界はもう、我が生きていくには小さすぎる」
「それは哀しいですね」
当然の感想だろうに、
「哀しい?」
竜は気づいていなかったようだ。
「だって独りぼっちで、元の身体に戻ることもできないじゃないですか」
「ふむ……。先ほどの台詞は、竜の器を捨てて正解だったという意味で口にしたのだが、哀しみを誘う文句に聞こえてしまっていたとは」
人間の言葉は難しい、と竜は零す。
「いや、お上手ですよ?」
たぶん、難しいのは心の機微であろう。
「いや、難しい。事実、我は哀しくなどない。哀しいのは……汝のような翼だ」
「……はい?」
「違う、可憐なる赤髪のネレイドではない。その昔、汝と似た黒い翼を持ったモノがいたのだ」
「それは人間ですか?」
「汝に似ているのだから、そうであろう」
この感じは、まるでお年寄りと話している気分。賢明かどうかはともかく、ネレイドは聞き流す選択をする。
「哀しいと聞いて思い浮かぶのは――少女の翼だ」
顔は無表情だが、声には感情が乗っていた。竜は切なさを体現した音色を紡いで、哀愁を漂わせる。
「そう、あの姿は確かに少女だった。それで、我は哀しいを学んだ。かけがえのないモノを失った、嘆きの声……」
言葉なく、竜は歌い出した。
いや、竜だから鳴きだした、というべきだろうか。
「……あれっ?」
ネレイドは頬を伝う感触で、自分が泣いていることに気づく。
「おかしいなぁ……あれっ?」
空はこんなにも広くて、青く晴れているのに……どうして哀しいんだろうか?
『もしかして、ペドフィ様ですか?』
自分に泣く理由がなかったので訊いてみるも、
『……いや、あんただ』
違った。
返事があったことに驚くこともなく――じゃぁなんで? と、ネレイドは悩みだす。
『……あんたが先だった』
だから、続いた本音も聞き逃してしまった。
ペドフィにとって、この声は神秘だった。人間の理解を超えて心に響く、悲哀の旋律。
サディールにとって、この声は芸術だった。大切なモノを失った経験がある者にだけ伝わる、愁傷の調べ。
レイピストにとって、この声は力だった。否応なしに、大切なモノを失った時を思い出させてくれる。
「……なんでだろう?」
そして、ネレイドにとっては謎の鳴き声だった。
ただ、ただ――哀しい。
だから、私は泣いているんだと納得させる。
その幼さから、少女は自分の傷さえわからないままだった。