第64話 追憶、神を殺した少女の翼
文字数 4,091文字
エリスが文句を口にした時には、既に遅かった。
この高さからでも、湖面が揺れているのが見える。それも激しく波打ち――巨大な岩でも落としたかのように、水面が割れた。
「……聞こえちゃった?」
冗談のつもりだったのか、ネレイドはあちゃぁーと言わんばかり。
「あなたねぇ……っ!」
混乱しているのか、エリスは先ほどと似たような台詞を繰り返す。
「でも、何も出てこない?」
見間違えでなければ、徐々に波紋が収まっている。
「結界の所為で、外からは竜の存在に気づけないようになっています」
サディールが説明する。
「ただ、こちらの声は聞こえたようですので急ぎましょうか。不可抗力とはいえ、千年近く待たせてしまったわけですし」
「じゃぁ、飛んでいく?」
ちょうど山頂部分。ここから飛べばすぐに辿りつけそうな気がして、ネレイドは提案した。
「あなたはともかく、この距離はわたしには無理です」
遠くのモノが近くに見えるということは、それだけ離れている証拠である。
「大丈夫。私が抱えてあげるから」
「……あなたが?」
「もしかして、サディール様のほうが良かった?」
「そういう意味じゃありません」
疲れているのか、エリスの口調は少し荒くなっていた。
「体格的に、わたしのほうが大きいじゃない」
「そんなに変わんないって」
ねー、とネレイドは先祖たちに意見を求める。
「背丈は……並んで見たら、エリスさんのほうが明らかに高いですけど」
「胸と尻ほど、明確じゃないな」
初代に指摘され、エリスは顔を赤くして否定する。
「わたしが特別大きいのではなく、このコが小さいだけです」
「だって二歳も年下だもん」
一方、ネレイドは平然と口にする。
自分の大きさに疑問を抱けるほど、周囲に同じ年頃の同性がいなかったからだ。
また先祖たちの所為で、どちらも必要ないと思っていた。
「とりあえず、抱えてみてはどうですか? 距離的に途中で下ろすのは難しそうですので、一度試したほうがいいかと」
サディールの意見はもっともだったので試してみる。
「えーとじゃぁ、こう、かな?」
翼があるので背負うのは不可能。
となると、横抱きにするしかなかった。
「うーん、いけるいける。思ってたより、重くないし」
「……他に、ないのですか?」
身の置き所がないからか、エリスの様子がいつもよりしおらしく見える。
「じゃぁ、赤ちゃんを抱っこするみたいにやってみる?」
真面目に考えて言ったのに、
「先ほどの抱き方で結構ですっ!」
何故か怒らせてしまったようだ。
とはいえ、横抱きのほうが楽そうだったのでネレイドは何も言わなかった。
「んーと、私の首……というか肩? に手回せる? なんか落ちそうで怖いからさ」
エリスは死者が眠るように両手を組んでいた。
「……こう、ですか?」
年下の少女に抱きかかえられている羞恥からか、躊躇いがちな声。
「そうそう、そのまま私の首を引っ張るようにして、上体を起こしてみて。あっ、あくまで引っ張るようにだからねっ!」
「……これでいい、ですか?」
完璧、と口にしてからネレイドは背中に翼を付ける。
今回は飛翔というよりも下に向かって飛び降りるだったので、少しだけ羽を変えた。
たくさんの風を受け止められるように――六枚の羽を背に少女たちは空を落ちる。
「――っ!?」
この状況になると、エリスはさすがだった。
手の力だけでは足りない――すぐさま中空で放り出されると判断して、魔力の糸で二人の身体を結びつける。同時に、ヴェールとスカートの裾もしっかりと止めておいた。
――が、レヴァ・ワンにあっさりと喰われてしまう。
「なっ!?」
エリスはこのまま放り出される恐怖に怯えるも、
「まったく、このお馬鹿さんは」
サディールの助けが入った。
眷属の魔力は判断できるのか、彼の生み出した魔力の帯は喰われることなく、
二人の少女を固く結びつける。
「おぉ、絶景ですね」
「……あなたはっ!」
しかし、スカートの裾までは閉じてくれなかった。
エリスは自分の脚で布地を挟み込んで、大胆に翻るのを防ぐ。またサディールのおかげで手に余裕ができた為、ヴェールは脱いで胸元に収めた。
「いっっっったぁぁあ~~~~いっ!」
その間、ネレイドは更に羽を増やしていた。二枚の大きな翼で自分たちを包むようにして、文字通り身を斬る風から守る。
一方、スカートの裾には無頓着で激しく翻っていた。とはいえ、エリスを横抱きにしているので前は問題ない。
ただ、後ろから見ると些か間抜けに過ぎた。
めくれ上がったスカートが羽に被っているのが、果てしなくダサい。
「……やれやれ」
なので、サディールはそっと魔力の帯で押さえてあげる。誰も見る人はいないが、不憫で仕方がなかった。
「もしかすると、これが娘を持った父親の気持ちという奴ですか?」
サディールが独り言ちると、
「それか、能天気な妹を持った兄の気持ちだろう」
初代がつまらない当てつけを口にした。
「どっちにしろ、私たちには未知ですね」
サディールも乗っかるが、相変わらずだんまりのようだ。
妹がいたはずなのに、ペドフィに答える気はないと見える。
「あー……サディール様、方向を教えて貰っていいですか? 前が見えなくて……」
そんな中、ネレイドは能天気なお願いをした。風から身を守ろうと頑張るあまり、黒い翼で視界まで塞いでしまったからだ。
「はい、わかりました」
それでいて冷静に――自分で対処しようとせず、先祖に頼るところが実に能天気だとサディールは思う。
だが、そこがまた可愛くもあったので意地悪はしなかった。魔力体である為、風の抵抗を受けずに少女たちの先を羽虫型で飛んでやる。
「とりあえず、このまま落ちましょう」
その言葉を聞いて、ネレイドはやっと余裕ができた。
風景や風を楽しんだりはできないものの、高い空を飛んでいる事実に言いようのない喜びを感じる。
対して、エリスには恐怖しかない。
年下の少女に命を預けている状況。それも信頼できるかどうかと言われたら、嫌だと言いたくなるような相手にである。
そう、できるできないでなく――嫌、なのだ。
エリスにとって、ネレイドは相変わらず掴めない少女だった。
竜に向かって声をかけたのも、山から湖に向かって飛び降りるのも――本当に、あり得ない。
現に、飛び降りた瞬間から足りないモノだらけで、命の危険を感じる羽目になった。
だというのに、もう楽しんでいるのか鼻歌が聞こえてくる。
近すぎて、見ていられないと思っていたけどエリスは目を開ける。
翼の隙間から景色を見ようとしてか緑色の瞳は細められ、眉間には皺が寄っていた。ヴェールからはみ出した赤い前髪は落ち着きなく揺れ、見えない景色に苛立ってか不意に唇を尖らせる。
――と、こちらの視線に気づいてか目があってしまった。
エリスは気恥ずかして伏せるも、ネレイドは嬉しそうに笑って――視界を狭めていた黒い大翼を広げた。
「……っ」
まだまだ風が強くて、文句を言いたくなるも堪えた。舌を噛みそうで、とてもじゃないけど口は開けない。
それをわかってか、ネレイドは意地悪に片頬を持ち上げていた。が、目に涙が溜まっているところからして、彼女自身も辛いようである。
エリスは呆れて、文句を言う気も失せてしまった。
正面から風を受けるとわかっていながら、なんの対策も取っていなかったなんて本当に迂闊すぎる。
――と、今度はしっかり顔全体で笑って、ネレイドは歓声を上げた。
「わぁーっ! きれいっ!」
純粋な響きに釣られ、エリスも恐る恐る目を向けてみる。
風は痛いし、横抱きにされたまま身体を動かすのは怖くて嫌だったが……
「……奇麗」
その甲斐あってか、幻想的な湖を見ることができた。
遠くから見た時は翠色だったけど、違った。それだけじゃない。様々な青と緑が入り混じっている。
そして、湖面のあちこちが空と雲を映しており――太陽もあった。
きっと、絶妙なこの高さだからこそ見れる景色。
目を閉じることなく、太陽を見られるなんて――
「でしょっ?」
「うんっ!」
つい、エリスは素で答えてしまっていた。
けどそんなことにも気づかずに、竜が住む湖に見惚れていた。
「……」
だが、その一方で――
結界を挟んで、竜もまた少女たちを見ていた。
そうして、その姿に想起され――幾星霜の記憶が浮かんでは消えていく。
黒と赤の色彩――魔剣レヴァ・ワン。
白と青の色彩――神剣レヴァ・ワン。
人型に黒い翼――魔に堕ちた天使。
抱えられた人間の少女――神剣レヴァ・ワンを手に神を殺した。
そう……あの天使は人間の少女に恋をした。
それも自らの主を殺す、レヴァ・ワンを愛してしまった。
だからこそ、魔に堕ち――それでもなお、少女の翼となって戦った。
懐かしい……記憶。
魔を統べるモノたちが勝利し、聖なるモノたちが滅び……
――あの少女も消えてしまったのだ。
何処か別の世界へ。
神を殺す為に、
そうして、残された少女の翼は世界を震わせるほどに
――何処かへ行ってしまった。
湖に縛られた竜には追いかけることもできず、いつしか哀しみに沈んだ翼のことも忘れてしまっていた。
だが、そんなことはどうでもいい。
今、大事なのはただ一つ。
――これから訪れる自由だけだった。
待ち望んでいた相手の到来に、竜はせっかく思い出した古の記憶を放棄した。