第120話 少女の世界
文字数 3,946文字
教会の祭服に身を包み、鋭い耳を隠すようヴェールを深く被ったヘーネルがぼやく。
彼女の目の前にはネレイドが座っており、ぼーとしていた。
「今なら、簡単に殺せそう」
瞳に向かって指を突き出すも、ピクリともしない。本当に精神がここにないのか、身を守る反射的な行動は一切取らなかった。
「はぁ……」
大きな溜息を零して、ヘーネルは指を引っ込める。
彼女がここにいるのは竜オンナ――エリスに脅されたからに他ならない。
城塞都市アレサから逃げた後、ヘーネルは昔のように森で暮らしていた。
アレクトたちとの日々を懐かしむことすらあれ、また誰かと生活を共にしたいとまでは思わず、独りきりで――
せっかく静かに暮らしていたのに、ある日竜オンナがやって来て滅茶苦茶にしてくれたのだ。
居場所までは把握していなかったのか、竜オンナは咆哮を上げて上げて上げまくって――森から、すべての生き物を追いやった。
そうなると、狩人としては姿を見せるしかない。また一日中、竜の咆哮を聞かされて参ってもいた。
そうして、二人は顔を合わせ――ネレイドの護衛を頼まれた次第だった。
竜オンナの提示した利点はヘーネルの身の安全。正確には、自分は二度と狙わないという勝手なもの。
それでも、ヘーネルは応じた。
怖いのは竜だけで、教会の人間なら何人来ようと逃げおおせる自信があったからだ。
その為、他の者たちに姿を見られないようヘーネルは注意していた。
特に耳と削ぎ落した胸を知られるとおしまいなので、毎日が緊張の連続。瞳も同様に目立つので、らしくない姿勢で過ごさなければならない。
ただ、変装してネレイドの傍にいるのはエリスが離れる時だけ。その他は狩人として、遠くから護衛していた。
こんな状態でもレヴァ・ワンは健在なので、ネレイドに魔術は通用しない。それに逃げたり動いたりしないので、狙撃の邪魔になることもなかった。
現にこの一年、ヘーネルは百人近い刺客を射殺している。
「こんなコを殺したってねぇ」
あの苛烈さを知っているだけあって、今のネレイドの姿は痛ましかった。
起床から就寝に至る生活のすべてを、誰かにやって貰わないといけないなんて……。
本当、温かくて壊れやすい人形でしかない。
半年ほど前、顔を見せたキルケが言うには一部の好事家が欲しがる女(商品)らしいが、まったくもって理解ができなかった。
なんの反応も示さない相手を抱いて何が楽しいのやら――と思いつつも、ヘーネルは暇を持て余すとネレイドの髪を結んだり、頬を触ったりしていた。
「何やっているんだろう……」
そして、寂しくなるとそっと抱きしめる。
血の繋がりがそうさせるのか、今となってはこの少女を愛おしく思うようになっていた。
共に、あのレイピストを先祖に持つ身。
ネレイドにその面影は見つけられないが、守ってあげなければと強い感情が沸き上がってくる。
「さっさと、起きなさいよ」
暗殺を目論む人間こそ減ったが、ネレイドを恨んでいる者は多い。
今度こそレイピストの血を絶やすべきだと扇動する輩もいて、日に日に危険は大きくなっていた。
もし集団による暴動が起きたとしても、ネレイドを守ることはできる。
けど、沢山の人間が死ぬ。
それも無知や暗愚というだけで、基本的には害のない人々が沢山――
「でも、あんたは今のままのほうが幸せなのかもね」
怒ることも哀しむこともない。
大勢に狙われてはいるが、同じくらい愛されて守られてもいる。
最後に見たのが泣き顔だった所為か、そんなつまらないことをヘーネルは思った。
そこは真っ暗闇だった。
「あ、無理だこれ」
レヴァ・ワンに意識を呑まれるなり、ネレイドはものの数秒で諦めた。
自分の姿すら見えない深淵。手も足もお腹もさっぱり。感覚もなくて、もはや生きているのかどうかも定かではなかった。
こんな闇の中で、誰かを見つけることなんてできるはずがない。
「……でも、レイピスト様は来るんだろうな」
なのに、初代であればきっと探し出せるとネレイドは信じられた。
それがいつになるかはわからない。
初代は冗談で皺くちゃの婆と口にしていたけど、本当にそうなる可能性もなくはないのだ。
「美味しかったなぁ。王都で作ったのお菓子とお茶」
楽しかった思い出を漁って、ネレイドは気を紛らわせる。
「また、オシャレしたいなぁ」
今度は一気に飛んでルフィーアの記憶。
少女は実に俗物的であった。
だからこそ、ペドフィのように絶望はしなかった。
あれだけのことがあって、あれだけのことをしておいて――と、自分で自分を追いつめる真似はせず、思考は楽なほうへと逃げる。
けど、それは無意識のこと。
ネレイドだって自分を散々責めた。
ただ、程度が浅い上に気力が長く続かなかっただけである。
もともと、少女には諦める能力が身についている。
それはネレイドに限った話ではない。
田舎で生まれ育った少女の多くは、沢山のモノを諦めて生きているのだ。
その結果、自分の手に負えない問題はすべて仕方ないで済ませられた。
究極のところ、少女の世界に責任という概念は存在しない。それは大人と男のモノだと、心の何処かで思うようになっている。
実際、アックスの村においてはそうだった。
ネレイドは子供であって、まだ女ではない。また、近い年代の子も少なかったので、誰かに認められたいという感情も強くは芽生えなかった。
そうして、残ったのは年相応の能天気さ。
どれだけ自分を責めて他人に嫌われたとしても――お腹は空くしオシャレもしたい。
少女と社会は近いようで遠かった。
今でもネレイドが怖いのは父親に責められることであって、社会に許されないことではない。
結局、大人との接点が少女にとっての社会となるのだ。
そして、ネレイドが触れた大人は非常に少ない上に、あり得ないほど奇想天外であった。
「――やっと、見つけたぞ」
久しぶりに誰かの声を聞いて、ネレイドは嬉しくなる。
「レイピスト様」
絵物語の中で王子様を呼ぶように、少女は紡いだ。
「ったく。手間かけさせやがって」
「別に、私が頼んだわけじゃないもん」
「生意気な嬢ちゃんだ。けど、そんだけふてぶてしかったら大丈夫だな」
「うん。もう、平気。いっぱい考えていっぱい責めてたら、疲れてどうでもよくなっちゃった。それにお腹が空いたというか、すっごく味が欲しいの」
姿こそ見えないままだが、話し相手の存在に嬉しくてなってネレイドは捲し立てる。
「そうかい。ただ、もしかすると戻ったら戻ったで、大変かもしれないぜ」
「えー、なんでですか?」
「嬢ちゃんの身体はエリスに任せたんだ。その代わり、好きに使っていいって許可だしといたから、聖女として崇められている可能性もある」
「うわぁっ、なにそれ? 信じらんないんですけどぉ~」
想像するだけで、鳥肌が立つ。
聖女なんて柄じゃないのは、自分が一番わかっていた。
「まぁ、そこは目覚めてからのお楽しみだな」
「そういえば、どれくらい経ってるんですか?」
「それも目覚めてからのお楽しみだ」
「あぅ~」
皺くちゃの婆だったらどうしようかと、本気で悩む。
「とにかく、行くぞ」
初代には見えていたのか、手と手が繋がれる。
人の温もりが、大きな手がなんだか心地よくてネレイドは素直に従う。
「ねぇ、レイピスト様」
「なんだ?」
「……お別れ、なんですか?」
「嫌なのか? 最初の内は最悪とか言ってたじゃないか」
「それはそうだけど、もう忘れちゃった」
「そういうとこ、女は凄いよな。嫌ってた相手と普通に仲良くできるんだから」
「そう、ですか?」
「あぁ。男は認めることはあっても、仲良くはならねぇな」
「ふ~ん」
ネレイドは相槌を打つ。
これで最後だと思うと沈黙の時間が勿体なくて、とにかく埋めたかった。
「私、大丈夫ですよね?」
「さっきの威勢はどうしたんだ?」
「だって……。もう、誰もいないんですよ? ペドフィ様もサディール様もレイピスト様も」
「嬢ちゃんは何者だ?」
「え? 私は別に何者でもないです。ただの村娘です。結局、神様にも勝てなかったし」
「それで正解だ。もし責める奴がいたら言ってやれ。ガキの女に責任を求めるなんて、恥ずかしくないのかってな」
わー酷い、とネレイドはぼやく。
「自分を英雄なんて思ったから、オレたちは駄目になった。男は恰好つけだからな、凡人であることを受け入れられなかった。特別でありたいと願ってしまった」
「でも、レイピスト様が凡人ってのは無理がありますよ」
「知ってる」
まるでそれが不幸であったかのように、初代の声は悲し気だった。
「嬢ちゃんが凡人ってこともな。神は時代の用意した勇者とか言ってたけど、あいつは女を知らなかっただけだとオレは思うよ」
「ですよねー」
実際、神が自分と違う姿だったら、あそこまでムキにはならなかった。
「っと、そろそろだな。なんか、面倒なことになってるみたいだぜ」
「やだなー」
「安心しろ、見ていてやる。それに消えるかどうかは、オレにもわからないんだ。オレがそれを望むとはいえ、馬鹿剣が叶えてくれる保証はないからな」
「わかりました」
手が放される前に、ネレイドは空いた手を添えて包み込むよう握る。
「レイピスト様、ありがとうございます」
最後に何を言おうか色々と考えて、
「あなたのおかげで、私は生まれたんですよね?」
絶対に否定できない質問をした。
「あぁ」
初代は力強い声で頷いてくれた。
それを聞いて、もう怖いモノはないとネレイドは満足する。
少女は再び現世に舞い戻り、四代目レイピストとして最後の戦いに挑む。
果たして、その姿は鬼畜か英雄か――