第116話 サディスト

文字数 2,938文字

  ――それを望んだことは今でも憶えている。

 けど、それがいつのことだったのか。あれから、どれだけの時代が過ぎ去っていったのかは、あやふやであった。
 すべては遠い記憶の中。
 ただ、強く願った記憶だけは残されている。

 ――あの人に会いたい。

 本当のところ、自分が堕ちた理由は定かではない。
 正直、心当たりが多すぎて決められなかった。
 
 他の天使たちを監視して、裁く宿命を厭っていた。
 何度か罪を黙認し、使命を怠った時もあった。
 同胞たちから嫌われ、裏切者と誹られ――そんな時、彼女を見つけたのだ。

 神を殺す者。
 世界を滅ぼし、すべてを無へと帰す存在。
 究極のところ、神と魔に仇なす共通の敵。

 そして、我々を召す者――レヴァ・ワン。

 なのに、彼女の魂は誰よりも穢れなかった。
 魔と共に戦っていながらも、聖なるモノを滅ぼし、同属の人間を見殺しにしているのに――

 ――その白き翼はどの天使よりも輝いて見えた。

 裁きの天使である自分よりも、自らが主と仰ぐ神よりも……。
 そう、思ったことが罪だったのか。
 それとも、自分でも気付かない内に嫉妬してしまったのか――なんにせよ、彼女に心を奪われたのは間違いなかった。

 たとえ、それが人間たちがいう恋や愛と違っていたとしても、それだけは絶対に譲れない。

 ――おいで、ボクの翼。

 投げかけられた言葉を、差し出された手を、向けられた笑顔を――居場所のない自分を受け入れてくれた、彼女の姿をずっとずっと憶えている。

 初めて美しいと思った黒の色彩。長い髪につぶらな瞳。
 他の人間と比べても小さい存在なのに、強くて優しくて、誰もが忌むべきような魔獣にも屈託なく接していた。

 そして、あの純一無雑の翼を棄て――穢れた自分をおいてくれたのだ。

 だから、この魂が擦り切れるまで傍にいるつもりだった。
 もしもの時は、身を挺して守ると決めていた。
 彼女に見届けて貰えるのなら、魂の滅びさえも怖くない。

 なのに、彼女は去ってしまった。
 
 ――ボクを残して……。
 
 残された激情はどうすることもできなかった。
 世界を震わせるほど嘆き哀しんでも、なお足りない。

 彼女に会いたかった。
 ただ、会いたかった。
 もう一度、会いたくて会いたくて……。

 今度は罪を自覚し、堕ちることを受け入れ、深淵に向かって突き進んだ。

 ゆえに救いようはなかった。
 以前、レイピストたちが言っていた通り、自らの意思で一線を越えたモノはどうしようもない。
 奇麗事を捨てた時点で、堕ちた天使の辿りつく先は決まっていたのだ。


「――はぁ」

 
 砂塵に紛れて、盛大な溜息が響き渡る。
 堕ちた天使は今もってなお混迷したまま。受け止めた人間の身体を探しているように、空っぽの自分の手を見ていた。
 
 抱きとめたはずなのに……どうして?
 最期まで離さないと誓ったはずなのに、なんで?
 
 もしかしなくとも、その人間によって自分が傷ついたことすら理解していない様子である。

 大きく目を瞬かせる仕草はまさに稚い少女であり、傷だらけの姿も相まって実に同情を誘う。
 地面に膝を付いた状態できょろきょろと周囲を見渡し、近づいてきた黒い人影に向かって両手を伸ばす。
 
 今度こそ離さない。
 だから、もう一度だけ――と抱っこをせがむように。

 だが、砂塵をかき分けて現れた人物は鬼畜極まりない男であった。
 その姿を見つけるなり薄ら笑いを収め、手にしていた錫杖を振るう。杖頭が堕ちた天使の腹を突き――地面へと押さえつける。
 慣れない力技だが、サディールは苛立ちから選んでいた。両手で錫杖を握り、全体重をかける。

 人間でないからか、さほど苦しんでいる様子はない。
 堕ちた天使はただただ困惑している。
 まだ子供すら産めない童女のように現状を理解していない。

「――なんで、生きているんですか?」

 それでも、サディールは問う。
 彼は巨大な十字架から姿を消した後、周囲の魔力を集めて圧縮させていた。
 堕ちた天使にぶっ放した魔術の残滓に始め、使わなかった術式もすべて崩してペドフィに注ぎ込み――

「ペドフィ君は命を賭けたんですよ?」

 サディール自身は爆発の威力を可能な限り高めようと、それらすべてを抑えつけていた。
 結果、ペドフィが暴走させた魔力は周囲に影響を及ぼすことなく、狭い範囲内を破壊し尽くした。

「普通、空気を読んで死ぬべきでしょう?」

 とんでもない暴論を言い放つなり、地面――堕ちた天使の背中に巨大な眼が開く。

「……やっ! ボクは……ボクはっ! やっ、やだっ!」

 沈んでいく自分に気づいてか、堕ちた天使が駄々をこねる。
 両手両足をじたばたさせ、目には絶望の表情を浮かべ――

「人間じゃないから、涙は流せないんですね」

 しかし、サディールの感想はそれだけだった。
 腹部を抑えつけていた錫杖を垂直に突き立て、嫌がる少女を無理やり押し込もうとする。

「いいからさっさと死んでください。今回に限っては楽しむ気はないんですから――ねぇ!」

 言いつつも、サディールの笑みは嗜虐的だった。
 怯える少女の姿に心を痛めたネレイドやペドフィとは裏腹に、褒められない興奮を覚えている。

「やーだぁっ!」

 深淵の眼に沈んでいた翼が顔を出し、サディールの身体を包み込む。

「別に構いません。私も死ぬ気ですから」
 が、微塵も怯まず錫杖に全体重をかける。
「嫌がる少女と一緒に死ぬのも中々に滾るモノがありますねぇっ!」

 逆に堕ちた天使が怯懦に流された。
「やっ……だ」
 こんな男と一緒に死にたくないと言わんばかりに。
 
 その隙を見逃さず、サディールの周囲に無数の目が出現し――堕ちた天使を見下ろす。

「どう? ですか。一応、あなたの目を真似てみたんですけど?」

 すなわち、神を殺した少女(レヴァ・ワン)と同じ瞳。

「ほら、あなたの大好きな彼女が見送ってくれますよ?」

 ただし、その数は百を超える。
 悪趣味としか言いようがないやり方だが、効果は充分のようだ。
 翼の拘束が解け、堕ちた天使は閉じていく深淵の瞳に沈んでいく。

「……泣けないってことは、あなたの愛した彼女は一度も涙を見せなかったんでしょうね」
 無反応の少女を虐める趣味はないので、サディールは紳士的に振舞う。

「……う、ん」
 こちらもまた人間ではないからか、この状況下で普通に返事をした。

「……きっと、泣いていたと思いますよ。知らない世界に()ばれて、あなたとの別れを知った時はね」

「……ほんと?」
 滅びを目前にしながらも、堕ちた天使は花開くような笑みを見せた。
 おそらく、彼女の記憶に焼き付いている表情なのだろう。

「えぇ、私は人間ですから――わかるんです」

 また、多くの女たちを苛め抜いた経験もあった。
 種族を問わず、女にとって故郷に帰れないというのはとても悲しいことなのだ。
 
「だから、あなたももう逝きなさい」

 終わりなき闇の世界に。
 喰らうしか能のない馬鹿剣の中に。
 ただそこには、同じように彼女を偲ぶモノがいるかもしれない。

「彼女はともかく、ペドフィ君はいます。そして、私もすぐに行ってさしあげます」

 そう告げて、サディールは錫杖ごと堕ちた天使を落とす。
 深淵の瞳がゆっくりと閉じ、そこには奇麗な更地が残っていた。

「――最期を見届ける瞳(オルヴォワール・オブザーヴ)
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登場人物紹介

 4代目レイピスト、ネレイド。

 長い赤髪に緑の瞳を持つ少女。田舎育ちの14歳だけあって世間には疎い。反面、嫌なことや納得のいかないことでも迎合できてしまう。よく言えば素直で聞き分けがよく、悪く言えば自分で物事を考えようとしない性格。

 もっとも、先祖たちの所為で色々と歪みつつある。

 それがレイピストの血によるモノなのかどうかは不明。

 初代レイピスト、享年38歳。

 褐色の肌に背中まである銀髪。また、額から両頬にかけて幾何学的な刺青が入っている。

 蛮族でありながらも英雄とされ、王家に迎えられる。

 しかしその後、神を殺して魔物を犯し――最後には鬼畜として処刑された忙しないお人。

 現代を生きる者にとってあらゆる意味で非常識な存在。

 唯一、レヴァ・ワンを正しく剣として扱える。

 2代目レイピスト、サディール。享年32歳。

 他者をいたぶることに快感を覚える特殊性癖から、サディストの名で恐れられた男。白と黒が絶妙に混ざった長髪にピンクに近い赤い瞳を有している。

 教会育ちの為、信心深く常識や優しさを持っているにもかかわらず鬼畜の振る舞いをする傍迷惑な存在。

 誰よりも神聖な場所や人がかかげる信仰には敬意を払う。故にそれらを踏みにじる存在には憤り、相応の報いを与える。

 レヴァ・ワンを剣ではなく、魔術を行使する杖として扱う。

 3代目レイピスト、ペドフィ。享年25歳。

 教会に裏切られ、手負いを理由に女子修道院を襲ったことからペドフィストの烙印を押された男。

 黒い瞳に赤い染みが特徴的。

 真面目さゆえに色々と踏み外し、今もなお堕ち続けている。

 レヴァ・ワンを闇として纏い、変幻自在の武具として戦う。


 エリス。銀色の髪に淡い紫の瞳を持つ16歳の少女。

 教会の暗部執行部隊で、神の剣を自称する『神帝懲罰機関』の人間。

 とある事情からレイピスト一行に同行する。

 アイズ・ラズペクト。

 竜殺しの結界により、幾星霜の時を湖に鎖された魔竜。

 ゆえに聖と魔、天使と悪魔、神剣レヴァ・ワンと魔剣レヴァ・ワンの争いにも参加している。

 現在はペドフィが存命中に交わした『レイピスト』との約束を信じ、鎖された湖で待ちわびている。

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