第58話 サディールの失態
文字数 3,621文字
久しぶりに、サディールはネレイドの中に入っていた。
そうして、レヴァ・ワンを杖へと転じ、散々仕込んだ呪文を唱える。
エリスが見るのは初めてだった。
十字の交差部分を
あえて鳴らない鐘を付けているのは静かに眠れという優しさか、それとも誰も送る人はいないという嫌がらせか。
黒い雲が街の上空を覆ったと思ったら、激しく音を立てて泣き始めた。
ヴィーナの街では傷つき穢れた人々を癒した雨が、この街では敵を苦しませ追い立てることになる。
「私が合図を送るまでは、レヴァ・ワンはこのままにしておいてください」
サディールは少女の身体からでるなり、頼んでいた。
「えーと……最悪、この杖で戦えってことですか?」
ネレイドは手にした杖を振るうも、傍からだと子供が遊んでいるようにしか見えなかった。大きさは初代の大剣ほどではないが、長さだけなら同じくらいはある。
「魔術で戦ってください、という意味です。まぁ、扱えるなら鈍器として使っても構いませんけど」
「これ、どう見ても殴る為の杖じゃないですよね?」
「えぇ、ただのお飾りです。それでも、充分に殴り殺せます」
そう言い残してから、サディールとエリスは街へと向かった。共に人型でありながら、あり得ない速度と跳躍力で外壁の上へ。
「逃げずに、留まるようだが?」
エリスが指摘した通り、敵は門には向かわず、建物へと避難している。
「問題ありません。こうすれば、解決できますので」
雨粒をすくうように、サディールは手を伸ばす。
掌の上でも流れないのか黒い水は溜まっていき、
「
単純な命令と共に放たれた。
黒い水球は鐘が釣られた塔へと直撃して、けたましい破壊の音色を響かせる。
「っ……!?」
いくら高い位置にあって目がついたからとはいえ、真っ先に教会のシンボルでもある鐘を狙った事実に、エリスは言葉を失う。
「ほら、逃げ始めましたよ。上に行くと、殺されると勘違いして」
更にもう一つ二つと、背の高い建物を壊してやると、効果は絶大だった。
様子からして、逃げる者と残る者で揉めているようだ。
その間にも雨は流れずに、徐々に水位があがっていく。そうして黒い水が膝まで達すると案の定、統率は乱れた。
「まだ、止めないのか? そろそろ、子供の腰を超える高さだぞ?」
激しく降り注ぐ雨粒の所為でよく見えないが、敵の大人たちの進み具合からしてエリスは判断した。
「そうですけど、思ったよりも敵の移動が遅い」
建造物の屋根に溜まった水を落としながら、サディールは言う。
「どうやら、全員が道を把握しているわけじゃないみたいですね」
更には視界が悪く、混乱しているのだから当然である。
「……人質まで、殺す気か?」
それくらい推測できたとして、エリスは訊く。
「ヴィーナでも言いましたけど、私は助けを求めている人しか救いません。
生きることを諦めなければ
、この程度の雨では誰一人として死にませんよ」「子供たちもか?」
「大人と一緒にいましたので。大人たちが見捨てなければ、死なないはずです」
子供を見捨てる大人を知っているエリスからしてみれば、納得のいかない言い訳だった。
が、口を開くよりも先に轟音――信じられない破壊音が割り込んできた。
「なっ! いったい、なんだ今のは!?」
目をやった先には、この雨の中でも目立つほどの煙。
それが意味することにエリスは警戒心を露わにするも、
「おや? そう言えば、門を開けておくのを忘れていましたね」
サディールは平然と、自分の失態を理解した。
どうやら、外にいる二人が気を利かせてくれたようだ。空でも飛んでいるのか、そう長くない感覚で次の門も破壊――もとい、開かれた。
「……アレはどう考えても、門を開けるという行為ではないぞ」
「そりゃ、お嬢さんと先代と馬鹿剣ですからね」
派手な開門に巻き込まれた者もいるようだが、ここまで来て逃げない選択肢はないのか、人の波が外へと続いていく。
どちらにせよ、彼らの運命は変わりやしない。
それでも、外のほうが楽に死ねるのは間違いないだろうと、サディールは酷薄の笑みを浮かべる。
「心配なら、先に動いても構いませんよ? ただ、弓を持った者が潜んでいますので注意してくださいね」
エリスは睨むだけで、なんの返事も行動もしなかった。
この雨の中では、まともに動けないことくらいはわかっているようだ。
「たぶん、お嬢さんなら行きますよ。彼女には、いわゆる平等精神がありませんから。自分の助けたい人だけを、助けられる人だけを助けることができる」
教会の人間とは違って――言外の意味も伝わったのか、少女はますます不貞腐れた様子を見せる。
「別に、どちらが正しいというものでもありません。実際、平等精神がないと文句を言われる恐れもあります。まぁ、そういう人は私が前もって排除するのですが」
「……それでも、あなたのやっていることは正しくない」
エリスの声は弱かったものの、絶対の意志が込められていた。
「そもそも、私たちは存在自体が間違いですからね。正しくない選択をするのは、仕方のないことかもしれません」
「そんなことはないはずだ。少なくとも、あなたはわかっている。正しい行いというものを――教会の教えを理解しているはずだ」
「まぁ、そうでないと皮肉も言えませんからね」
サディールはとぼけた返答をしたかと思いきや、急に脈絡のない話を始める。
「教会の教えを守っていても無価値な人はいます。逆に、罪を犯していても魅力的な人もいます。そして、悪いことをしていなくても悪者にされる人もいます」
きっと、ネレイドならわかっただろう。
今のが、三人の先祖を例えたものだと。
「罪を犯すのなら喜びを抱き、楽しみを覚えながら。それこそが、罪の良さです。楽しいからやった。これに勝る理由はありません」
そして、そのように言えば相手は理解を諦める。
そう、サディールは理解されたくなかった。
「……そんな理由で、あなたは教会の教えに背いていると言うのか?」
素直に褒めてくれれば良かった。素直に認めてくれれば良かった。教会の教えを守る自分を、大人たちが素直に喜んでくれれば――
「えぇ、そうです」
――きっと、自分は正しくいられた。
でも、それすらも勘違いだった。
ペドフィの一件で、サディールの『もしも』は粉々に打ち砕かれた。
便利だの、何も知らない子供だの、扱いやすいだの、愚かな傀儡だの――そんな風に言われたのは、なんの関係もなかったのだ。
そういった子供じみた考え――失態を知られたくないからこそ、サディールは相手の理解しようとする姿勢を拒む。
「だって、今でも忘れられません。初めて罪を犯した時の快感は――」
「――
その一言で切り捨てたところを見ると、エリスは理解することを諦めたようだ。
教会で生まれ育った点からして、通じ合える部分があるのは間違いない。
それで仲間意識や共感を求める気持ちはわからなくはないが、サディールからすれば御免であった。
年嵩の男として、小娘相手に弱みを見せられるはずがない。
「あなたは相変わらず認識が甘いですね」
少しの意地悪を込めて、サディールは言ってあげる。
「この雨は流れないんですから、建物の中に入れば水死することはありませんよ」
「……あっ!」
数秒遅れて理解したのか、エリスはなんとも間の抜けた声をあげた。
「それに元は魔力ですので、空気に再転換してやれば閉じ込められた人たちも死にません」
つまり、溺死するのは恐怖や絶望に駆られて外に出た者。もしくは、これから叩き落とされる敵だけである。
「……してやれば、ですか?」
「えぇ、してやればです。ご安心を、人質の居場所はわかっています」
幸いにも、ほとんどが纏められていたので難しくもなかった。
「ちなみに、水の上は走れますか? 階下部分は全て沈めます」
「
「無理ではないですけど、他人の魔術に干渉するのはかなり難しいですね。では、私が歩けるようにしますので、そのつもりでいてください」
黒い雨は激しさを増して、振り続ける。
そうしてしばらくの間、二人は沈みゆく街を見下ろしていた。