第65話 鎖された湖の竜
文字数 3,202文字
ネレイドは着地するなり、硬い地面に座り込んだ。
「ごめん、もう無理。腕限界……」
続く情けない言葉を聞いて、
「ありがとうございます」
エリスは座った状態で頭まで下げ、感謝を示す。
「どういたしまして」
言葉こそ丁寧だったが、ネレイドの態度は最悪の部類だった。座り方からしてなっておらず、口もだらしなく開いたまま。
反射的に注意をしたくなるのを、エリスは堪える。
「遠くから見たら奇麗だったのに、こうして見るとなんか寂しいかも」
ネレイドは立ち上がらず、手を使って身体を一周させてから口にした。
湖は相変わらず奇麗だけど、周囲には一切の色がなかった。そして、剥き出しの岩肌が思っていたよりもずっとずっと多い。
「それに……なんか怖い」
周囲を高い山に囲われており、まるで見下ろされている気分。その山にも緑がなく、無機質な姿を晒しているから余計に冷たく感じる。
「まさに、世界から見捨てられた湖ですね」
サディールが人型になって、
「まぁ、正確には隔離でしょうが」
湖のほうに近づいていったので、少女たちも続く。
「竜いませんよ?」
湖には何もいなかった。
ネレイドは水に触れたいと思うも、手や足を伸ばしたくらいでは届きそうもない。かといって、飛び込むのは無謀なほど深そうである。
「結界で見えないだけです。湖の中に入らない限り、我々に竜の存在を感知することはできません」
「じゃぁ、ペドフィ様はこの中に入って、竜に会ったんですか?」
「えぇ、返り血を落とす為に」
「……つまり、全裸で?」
「そういうことです。どう考えても、戦える状況じゃないでしょう?」
裸の状態だと小さな虫すら恐ろしく感じるので、サディールの言い分はわからなくはなかった。
「嘘吐け。そんなん、レヴァ・ワンを纏えばいいだけの話じゃねぇか」
が、すぐさま初代がケチをつける。
「それでどうします?」
ネレイドは自分の頭の上に尋ねる。正直、裸になるのも服を着て湖に入るのも嫌だった。
「存命する最後の竜よ、
初代にしては丁寧な物言いであるが、端々に乱暴さを隠しきれていなかった。
それでも聞き届けてくれたのか――
「……え?」
「なっ……!?」
少女たちは最初、雷が落ちたのかと思った。
揃って自分たちが飛んで来た空を見上げ、そんなはずがないと、もう一度湖を見ると――
「……凍ってる」
「えぇ、凍っています」
既に凍っていた。
それだけでなく、見る見る内に表面が削られ、ある地点に氷の砂が積み上げられていく。
「行くぞ。あの上に着地しろってことだ」
初代に促され、少女たちは理解する。
これが、竜の見せる誠意なのだと。
「行こうっ!」
こういう時、ネレイドの行動は早い。考えが甘く、判断を間違えはするものの、とにかく早かった。
良くも悪くも、先祖たちを信じて頼っているからである。
「えっ!? きゃーーーーーっ!」
だから跳んだ後で、翻ったスカートを慌てて押さえるポカをやらかした。
「はぁ……」
それを見て、躊躇っている自分が馬鹿らしくなった。エリスも続く。お淑やかにスカートを押さえ――
「――っ?!」
少女があげた悲鳴の理由を悟る。
凍った湖に向かって跳んだ瞬間、目の前に巨大な姿があった。
暗い青と黒が視界に広がる。視線を走らせても、景色は変わらない。何処もかしこもその色に遮られ――
「エリスっ! 着地着地っ!」
忠告されるも遅かった。
エリスは足を揃えて、スカートを押さえた状態で落ちてしまった。
「……冷たい」
しかし、覚悟していた痛みはなかった。ただ、冷たいだけ。下の氷は粉と呼べるほど、細かく削られている。
「大丈夫?」
「えぇ……」
言いつつも、エリスは立ち上がろうとしない。座ったまま見上げ、竜の顔を見つける。
異彩を放つ、赤い二つの輝きが瞳であろう。
配置からして蛇に似ている。そう、口を大きく開いた蛇の頭。だが、身体は違う。四つ足で氷の大地を踏みしめ、鋭利な爪を有しているも……決して獣なんかではない。
体躯と比べて、心もとない四肢はさながら空を飛ぶ猛禽。細いからといって、侮ることはできやしない。
エリスが冷静に観察している中、ネレイドは立ち上がっていた。
彼女が抱いた竜の感想は、トカゲの身体に鳥の手足と蛇の頭を付けたみたいである。その背中に対となる翼、側頭部に羊のように捻じれた二本の角。全体的に青黒いので、赤い目と金色の角が目立っていた。
「可憐なる赤髪の少女よ。汝がレヴァ・ワンであるな?」
見た目とは裏腹に響きの良い声であった。
とても美しくて、澄み渡った音色。
「はい、そうです」
「そうか……。心より感謝する。汝のおかげで、永きに渡る
「なんか、千年近くも待たせてしまったようですけど?」
「目的さえあれば、千年など短いものだ。それに我と約束を交わした人間が
瞬間、久しぶりに頭の中でペドフィの声がした。
『……ロリエーン』
「ロリエーンさん?」
「名前は憶えてはいない。ただ、そちらの少女と似たような雰囲気を醸し出していた」
何か音がすると思ったら、扇に似た竜の尻尾が氷を叩いていた。犬が喜びを示すように忙しなく動いており、見つけたネレイドは笑みを隠し切れなくなる。
「どうした? 可憐なる赤髪の少女よ」
「ネレイドでいいですよ。けど、竜さんは言葉が上手ですね」
お世辞とわかっていても、可憐と呼ばれるのは悪くなかった。
「必死で憶えた。レヴァ・ワンに
命乞い
をする為にな」それでついお返しをしたのだが、予想外に重たい答え。
「命乞い……ですか?」
「そうだ。それまで、人間の言葉など使う必要がなかった。何やら貢物を持ってくるので、言葉を聞き取ることはあったが……」
竜は蛇のように長い首を伸ばして、ネレイドを見る。
「そう、汝が
怖かった
。今でも、身が竦む思いだ。我々竜だけでなく、他のモノたちも同じ気持ちだった。皆が人間の言葉を憶えるだけでなく、積極的に力を貸すようにもなった」「それで奇麗な声なんですね」
「話を聞いて貰う為に必要だと学んだ。中には、見た目を人間に近づけたモノもいた。悪魔や天使といった、決められた器を持たぬモノたちがそうだ」
「竜さんは人間には?」
「無理だから、こうして縛られている。言うなれば、この結界は
竜殺し
だ。竜のみを完全に封じる。その分、聖なる結界でありながら魔を拒絶することはできず、汝らの侵入を阻むこともない」ネレイドからすれば、竜は先祖たちよりもよっぽど話が通じた。
一方サディールに言わせれば、どうしてそうも容易く信じられるのか? に尽きる。
「もっとも、それ故に魔剣レヴァ・ワンをもってしても、この結界を破壊することは叶わぬ。神剣レヴァ・ワンであれば可能であるが、もはやこの世界には存在しない以上、致し方ない」
「それじゃぁ、どうすれば?」
「先に言ったであろう? これは竜殺しの結界だと。だから、私が竜でなくなればいい。汝のレヴァ・ワンをもって竜という器を壊し、別の身体に移る」
そこでネレイドはエリスに目を向ける。
釣られてか、竜も続いて――
「そちらの淑やかなる銀髪の少女が、我が依り代――器で相違ないな?」