秦王・政の怒り

文字数 2,417文字

 秦・始皇帝の九年(B.C.二三八)のことです

 魏を伐って,垣(えん)、蒲(ほ)を取りました。

 夏、四月(陰暦です)、寒く、民に凍死(とうし)する者が有りました。

 王(秦王・政、始皇帝です)は雍(よう)に宿られました。

 己酉(きゆう)、王は冠(かん)され,剣を帯(お)びる儀式を行われました。

 楊端和(ようたんか)が魏を伐ち、衍氏(えんし)を取りました。

 さてここからです。時間が遡(さかのぼ)ります。

 (かつて)、王が即位したとき、年が(わか)く、太后(王の母、王が若いのですから、当然母も若かったでしょう)は時どき文信侯(ぶんしんこう)(呂不韋(りょふい))と私通(不倫か)をしました。王がますます壮年にちかづくにつれ、文信侯は事が発覚し、禍(わざわ)いが己に及ぶことを恐れました。そこで(いつわ)って舍人の嫪毐(きゅうあい)を宦者(かんじゃ)とし、太后のそばに進めました。

 ちなみに宦者は宦官のことですから、私通することは通常はできないわけです。ところがです。

 太后は嫪毐を寵幸し、二子を生み、毐を封じて長信侯(ちょうしんこう)とし、太原(たいげん)を毐の国とし、政事はみな毐に決し、客で毐の舍人となることを求める者がはなはだ多かったのです。

 王の左右のもので毐と言を争う者があり、毐がまことは宦者にあらざることを告げる者がありました。王は吏に下して毒を治め(調べ?拷問か?)ました。毐は(おそ)れ、王の御璽(ぎょじ)を矯(いつわ)りて兵を発し、蘄年宮(きねんきゅう)を攻めて、乱を起こそうとしました。

 王は相国(しょうこく)の昌平君(しょうへいくん)と、昌文君(しょうぶんくん)とに卒を発して毐を攻めさせ、咸陽(かんよう)に戦って、斬首すること数百、毐は敗走して、捕虜となりました。

 秋、九月、毐の三族を殺しました(三族とは、父母、兄弟、妻子、もしくは父族、母族、妻族などの説がある。いずれにしろ、累(るい)にかかった人は多かったと思います)。

 党や与(あずか)った人はみな車裂(くるまざき)にして宗(そう)を滅(ほろ)ぼし、舍人(けらい)で罪の輕い者は蜀(しょく)に流刑しました。およそ四千余家でした。太后を雍(よう)の萯陽宮(はいようきゅう)に遷(うつ)し、その二人の隠し子を殺しました。

 秦の国に、激震が走ったわけです。自業自得とはいえ、なんともいたましい事件です。

 王は令を下して申しました。

「あえて太后の事をもって諫める者は,戮(りく)してこれを殺し、その四支(四肢)を断ち、闕(宮殿)の下に積まん!」

 死する者が二十七人いました。つまりそれだけの人が諫言したわけです。レトリック(文辞)の可能性もありますが、ここには政権が変わって、太后につながって権勢を得ていたものもいたわけですから、その仲間としては命がけで諫言を繰り広げたのかもしれません。

 そこに齊の客で茅焦(ぼうしょう)と申すものが上謁(じょうえつ)して諫言する機会を請いました。

 王は茅焦に伝えさせて申しました。

(なんじ)はその闕下(けつか)に積まれている者を見なかったのか?」

 茅焦は答えて申し上げました。

「臣は聞きます、天に二十八宿があり、今、死する者は二十七人でございます。臣のまいりましたのは、固よりその数を満たそうとしたのみでございます、臣は死をおそれる者ではございません!」

 使者は走りて入りこのことを(もう)しました。

 茅焦の邑子(ゆうし)で同食(どうしょく)する者(郷里を同じくして仲の良かったものか)は、ことごとくその衣物を負うて逃げ出しました。

 王は大いに怒りて申しました。

「是の人や、故に来たりて吾れを犯すや(この人は、そのためにやってきて私に諫言しようとするのか)。(まね)くようにさせて(なべ)でこれを()よう。これいずくんぞ厥(そ)の下に積むを得んや!(その人がどうして宮闕の下に其の体を遺すことができようぞ!)」

 王は剣を撫(な)でて坐り、口から正に沫(あわ)が出ました。

 王の激しい怒りと、威嚇の様子がうかがえます。その密通していた母を幽閉し、臣下を二十人以上も殺しています。様子を想像してください。王の心中はいかほどだったでしょう。


 使者は(まね)きて茅焦を入れました。茅焦は徐行して前に至り、再拜して謁して起ち、称して申しました。

「臣は聞いております、生を有する者は死を諱まず、国を有する者は亡を諱まず、死を諱む者は以て生を得ることができず、亡を諱む者は以て存するを得ることができないのです。死生存亡は、聖主の急ぎ聞かんと望まれるところでございます。陛下はそれを聞こうとはおもわれないのですか!」

 王はおっしゃいました。

何謂也(どういうことだ)(何の謂いぞや)?」

 茅焦は申しあげました。

「陛下には狂悖(きょうはい)の行(おこな)いがございます。ご存知ないのですか?假父(かほ)(嫪毐(ろうあい))を車裂(くるまざき)にし、二弟を囊撲(のうぼく)し(袋に詰めて殴り殺したという)、母を雍(よう)に遷し、諫言の士を残殺(惨殺)し、桀(けつ)、紂(ちゅう)の行いも是(ここ)には至っておりません!今、天下はこれを聞き、ことごとく瓦解(がかい)し、秦に向おうとする賢者はおりません。臣は竊(ひそ)かに陛下のためにこれを危(あや)ぶみます!臣の言はそれのみです!」

 そして即座に衣を脱いで質(刃か)の下に伏せました。

 王は殿を下り、手ずから自ら接して申されました。

「先生、起ちて衣を就(つ)けられよ、今、願わくばそのことを受けん!」

 そして茅焦を爵して上卿としました。

 王は自ら駕し、左方を虚しくし、往(ゆ)きて太后を迎え、咸陽(かんよう)に帰り、また母と子、初めのごとしでした。

「国を有するもの」などの部分の意味を、私はいまいちわかっていないのですが、結局はつまり、王の怒りはすぐにほどけてしまい、親子はもとのとおりで、嫪毐に関わったものだけが悲哀を味わったわけです。

 なんというべきか、人の運命の非情さ、悲哀が感じられるかもしれません。
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