秦の孝公、『伯』となる

文字数 820文字

 ここでしばし、桂陵(けいりょう)の戦いから馬陵(ばりょう)の戦いまでの、各国の情勢を整理しておきたいと思います。

 まず(えい)が公から侯へその地位を落としたことは、先に述べました。

 魏は桂陵の戦いに敗れた後、積極的に外交を行います。

 邯鄲(かんたん)を趙に戻すことにし、その際に、趙と同盟を結びます。そして秦とも会合をもって、好誼(こうぎ)を結びます。

 三晉(さんしん)のうち、趙ではせっかく魏と同盟を結んだのに、君主である成侯(せいこう)(こう)じ、公子の(せつ)と太子がその位を争い、紲が敗れ韓へと逃げだします。

 また成侯の跡を粛侯(しゅくこう)が継いだのですが、また公子の(はん)が邯鄲を襲撃し、成功せずに敗死します。

 趙の国はしばらく荒れた展開が続くようです。

 斉の国は大夫(たいふ)が殺されることがあり、()の国でも代替わりが起こったりして、やや安定を欠いたようです。

 唯一勢力を伸ばしていたのが、韓と、秦でした。

 韓は申不害(しんふがい)のもとで、秦は衛鞅(えいおう)のもとで改革を進めます。

 特にこれまで未開の後進国として、中原の国々から後れを取ってきた秦は、一気にその遅れを克服し、むしろ先進の法治国家としてその姿を現してきます。

 その成果が、(はく)への任命でした。

 周の顯王(けんおう)の二十五年(B.C.344)、諸侯が京師(けいし)洛陽(らくよう))に集まります。続く二十六年(B.C.343)、秦の孝公が推薦され、『(はく)』という地位に就きます。

 中国の歴史上の聖人、文王(ぶんおう)の子、武王(ぶおう)の兄弟、周公(しゅうこう)召公(しょうこう)の兄弟が()いたといわれる地位で、天下を東西に二つに分け、それぞれが伯として諸侯の長となったとされます。

 他に『通鑑(つがん)』の注は九伯(きゅうはく)というものを挙げており、これは古代中国の伝説の区分である九州の長をあらわすのかもしれません。

 ともかく、昔の伝説の聖人が就いたような地位に、孝公は就いたわけです。
 秦は公子の少官(しょうかん)(官名か?)を派遣し、軍隊(())を(つら)ね、諸侯の使者を集めて周王に拝謁(はいえつ)します。

 これらは、秦の力を諸侯に誇示する一つの契機になったはずです。

 秦は、戦国の雄として、ここにその地位を現してきたのです。
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