才と徳

文字数 2,128文字

 さて趙氏、魏氏、韓氏の三つの氏族が、智伯(智襄子)の敗北によって興ったことを前章で見ました。すぐさまこれが各氏の独立につながったわけではありません。

 しかしこの智伯と三氏の戦いは大きな分かれ目になりました。この戦いについて、司馬光は二つの論考を残しておりますので、まず智伯の才と徳の話について、彼の論を紹介しておきます。

 しかしその前に少し説明を加えておくと、わかりやすいかもしれません。

 中国では、また日本においてなど、東アジアにおいてはかもしれませんが、『中庸』というものが尊ばれます。『中庸』という徳については、四書にも挙げられているものですが、実は四書でも最も難しい概念で、『大学』で門をたたき、『論語』、『孟子』で主要なことを学び、『中庸』で学を仕上げる、そのようなことが、確か『近思録』(宋学・朱子学の主要な概念をまとめた書)に載っていたように思います。

 私は素人で、歴史ですら苦闘しているのに、専門外の東洋哲学まで論じるのは避けたいのですが、司馬光が容赦なくそれらを駆使しているので、やむえないので少しだけ『中庸』について説明しますと、『中庸』とはざっくりいって『適切』という意味であると思います。「発して節に(あた)る」、とか「中和」というのですが、生きていく局面では様々な選択肢が現れますが、最も適切な選択肢を選べる、正義や、仁の心にかなっている、それが『中庸』です。

 何か凡庸であるとか、ほどほど、という意味にとられることもあるように思いますが、少なくとも私が読んだ印象では、「過不足ない聖人の境地」を『中庸』と呼ぶようです。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、ともいいます。柔らかかつしなやかな思想なのですが、その本質については、以下の文章にも通じるところがあると思いますので、まずこの文を読んでいただければと思います。そして『中庸』自体を読んでみられることをお勧めします。


 さて臣光が申し上げたいと思います。

 智伯が亡んだ理由とは、才が德に勝ったからにございます。

 そもそも才と德は異なるもので、世俗のものはこのちがいをよく弁じ分けることができません。この才と徳のちがいに通ずるものがあればそのものを賢人ともうします。この才と徳を弁じ分けることができない、それこそが有用の人を失う理由(人材登用に失敗する理由)なのです。

 そもそも聰察(そうさつ)強毅(きょうき)を才といい、正直中和を德と申します。才は、德の(もとで)であって、德は、才を率いる(コントロールする・帥)ものなのです。

 江南の雲夢(うんぼう)に生じる竹は、天下にその(つよ)さを知られます。そうではあるものの簡単に曲がったりしなったりできず、羽根を括りつけたりもできません、だから堅すぎて使えずなかなか実用に立たないのです。呉と韓の間にある棠溪(どうけい)の金属は、天下の利器として知られていました。そうであるのに溶かしたり、型にはめることがなかなかできず、砥いだり磨いたりもなかなかできず、だから強い武器を撃ってつくるのに適さないとされました。才が過ぎるものは、実用に立たないのです。

 だから才と徳をことごとく兼ねつくしたものを「聖人」と呼び、才德すべてないものを「愚人」というのです。

 德が才に勝っているものを「君子」といい、才が德に勝っているものを「小人」というのです。

 だいたい有用の人を登用するためには、仮に聖人を得ることができなければ、君子とともにし、小人を登用するよりは、愚人を登用したほうがいいのです。

 どうしてでしょうか?

 君子は才を用いて善を施し、小人は才を用いて惡を施します。才を頼んで善をなす者は、善が至らないということがないでしょう。才を頼んで惡をなす者は、惡もまたその人を好んでやってこないことはないのです。

 愚人は不善をしようとしても、智恵が十分ではなく、力もできないで、例えるならば乳狗(子犬)の人にじゃれるようなもので、人もこれを制御することができます。

 小人は智恵はその奸智を遂げるに足らないということはなく、勇はその暴力をふるうに足らないことはないのです。これは虎に翼をあたえるようなものです。その害たるやどうして多くないといえるでしょう。

 だから德とは人の厳かに敬うもので、才とは人の愛するものです。愛されるものには親しみやすく、嚴かなものは疎まれやすい。だからこそ賢察するものだけが多く才あるものを蔽って德のあるものをのこすことができるのです。

 古昔より以來、国の乱臣、家を敗る子孫とは、才があまりあって德が足らないもので、そのために国や家を転覆の憂き目にあわすことが多いのです。

 これはどうして智伯のことだけでしょうか!

 だから国を治めるものや家をおさめるものは才德の程度を審らかに熟知し、才と徳のどちらを先にしているかを知っておくべきで、そうであってはじめて人の賢愚について憂うことがなくなることができるのです!


 能力を使うには、モラルがいる。適切にそれを使う基準がいる。そのことについては、次の章でも出てくるのですが、司馬光の主張は胸に響きます。

 意訳で、ごまかしたところもあるかもしれません。しかし司馬光が最終的に智伯の事件について述べている意見とは、このようなものです。 参考になれば。
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