黃歇の弁、秦を退ける

文字数 2,724文字

 韓と、魏がすでに秦に服して、秦王はまさに武安君(ぶあんくん)白起(はくき)をして韓、魏と楚を伐とうとしましたが、まだ行かないうちに、楚の使者の黄歇(こうけつ)がまいりました。そしてこのことを聞き、秦が勝利に乗じて一挙に楚を滅ぼさないかと(おそ)れました、そこですぐさま上書してもうしました。

「臣が聞くに、物は至ればすなわち(かえ)るものだと申します、冬や、夏はこれにしたがっております。至る状態がきわまればつまり(物事は返ろうとするので)危うく、(かさ)なった博奕(ばくえき)()の駒はこれで、駒を積み重ねれば積み重ねるほど危うくなるのです。

 今、大国、秦の地は,天下を(あまね)くしてその二つの辺垂(へんすい)を占有されております、このようなことは生民(せいみん)以来より、万乗の地においていまだかつて有らなかったことにございます。我が楚の先王の三世は地を齊に接することを忘れず、従親(合従策)の(かなめ)(地形から見て韓と魏を指すか、今回、秦は韓と魏と結んで、楚を攻めようとしている)を絶ってまいりました。

 今、王は盛橋(せいきょう)に事((さいしょう))を韓に守らせ,盛橋はその地を秦にいれました、これは王が甲(武器)を用いず、威を伸べず、いながらにして百里の地を得たのでございます、王はよくやったと申されるべきでしょう!

 王はまた甲を挙げて魏を攻め、大梁(たいりょう)の門をふさぎ、河內(かだい)(の兵か?)を挙げて、燕の酸棗(さんそう)(きょ)(とう)を抜き(この事績は実際は始皇五年に現れる)、(けい)に入られ、魏の兵は雲翔(うんしょう)してあえて救いませんでした、王の功はなんと多いことでしょうか!

 王は甲兵を休め衆に一息つかせ、二年たって後これを再びされ、また並びに()(えん)(しゅ)(えん)を併合しそして(じん)平丘(へいきゅう)に臨まれました。魏は(こう)濟陽(せいよう)嬰城(えいじょう)は守ったものの魏氏(ぎし)は秦に服しました。

 王はまた濮磨(ぼくま)(地名、濮水に近い地という)の北を()き、齊、秦の要に注ぎました、そして楚、趙の背を絶ち、天下は五たび合し六たび(あつ)まってあえて救わず、王の威声もまた尽きたのでございます!

 王よ、もしよく功を保ち威を守り、攻取の心をしりぞけ仁義の地を肥やし、後患をしてなからしめば、三王は四となり、五覇は六となるでしょう!

 王がもし人徒のおおきに負い、兵革(へいかく)の強きに()り、魏をこぼつの威に乗じて、力で天下の主を臣としようとすれば、臣はその後患があることを恐れます。

 詩に申します、『初めがあらないものはなく、よく終りあるものは少ない。』(詩・大雅・蕩の辞であるという、『靡不有初,鮮克有終。』)。易に申します、『狐、水を(わた)る、その尾を()らす。』(『周易』未濟(びせい)の卦に『小狐汔濟,濡其尾。』とある。一部、文が変わっている)これは始めの(やす)く、終りの(かた)きをいったのです。

 むかし吳が越を信ずるや、それに従って齊を()ちましたが、既に齊人に艾陵(かいりょう)に勝って、かえって越王に三江(さんこう)(みぎわ)(とりこ)にせらるることになりました。

 智氏が韓、魏を信ずるや、それによって趙を伐ち、晉陽城(しんようじょう)を攻めましたが、勝利は数日があるのみとなって、韓、魏は(そむ)き、智伯瑤(ちはくのよう)鑿台(さくだい)の下に殺しました。」

 今、王は楚のこぼたれざるを(ねた)み、そうして楚をこぼつことが韓や、魏を強めることを忘れておられますので、臣は王のために(おもんばか)りて取らないようにいたすのです。

 それ楚の国は、(たすけ)でございます。隣国とは、敵でございます。今、王は韓、魏の善王を信じておられますが、これは正に呉が越を信じたものでございます、臣は韓や、魏が卑辞(ひじ)(うれい)を除き、まこと(実際)は大国・秦を(あざむ)こうとしておるのを恐れます。どうしてそうあるか?王はいく重もの世代の德など韓、魏に施したことなど無く、彼の国に世をかさねた(うらみ)があるだけでございましょう。そもそも韓、魏の父子兄弟は(かかと・くびす)を接して秦に死し、十世になろうとしております。だから韓、魏の亡びないのは、秦の社稷(しゃしょく)の憂いなのです。

 今、王は彼らを(たす)けた(物資を支援した)うえに楚を攻められる、何と過ぎたることではございませんでしょうか!

 また楚を攻めるにいったいいずこより兵を出されます?王はいったい路を仇讐(あだ)の韓、魏に借りられるのですか、兵を出した日に王は彼らが返らないのを(うれ)うことになるでしょう。王がもし路を仇讐の韓、魏に借りられなければ、必ず隨水(ずいすい)の右の(じょう)(山林)を攻められるでしょう、この地はみな広い川、大きな(かわ)、山林、溪谷で、食のない(開拓できない、耕せない)土地でございます。これにおいて王は楚をいためつけた名は有って地を得るという実利はないのです。

 また王が楚を攻めるの日、四国は必ずことごとく兵を起こして王に応じます、秦、楚の兵がぶつかって離れなければ、魏の一族はおそらく出でて(りゅう)方與(ほうよ)(ちつ)湖陵(こりょう)(とう)(しょう)(しょう)を攻め、そのために宋は必ず尽きるでしょう。齊人は南に面して楚を攻め、泗上(しじょう)は必ず挙げられるでしょう。(当時、楚は魯の泗水の流域を攻めていたので、その泗水流域(泗の(ほとり))を攻められることを指す)これはみな平原の四達膏腴(したつこうゆ)の地で、このようであれば、つまり天下の国で齊、魏より強いものはなくなるでしょう。

 臣は王のために考えますに、楚と善くするにしくはありません。秦と、楚が力を合せて一つとなって韓に臨めば、韓は必ず手をつかねて朝するでしょう、王は東山(とうざん)の険を()き、曲河(きょくか)の利を帯びれば、韓は必ず関內の侯となるでしょう。このようであれば王は十万の兵で(てい)(韓の国都)を(まも)り、梁氏(りょうし)(魏)を心寒からしめ、(きょ)鄢陵(えんりょう)の嬰城をして上蔡(じょうさい)召陵(しょうりょう)を往来できないようにさせ、このようであれば、魏もまた関內の侯となるでしょう。

(嬰城については、嬰とは、(めぐらす)である、とあります。嬰城とは、兵で城をめぐらせて守るもの、と注にありますが、定かではありません)

 大王は一つに楚と善くして(ふた)つの万乗の主を関內に置き、地を齊にうてば、齊(済水)の右の(じょう)(山林)は齊が手を(こまね)いているうちに取ってしまえるでしょう。王の地は一たび(ふた)つの海(東海、西海、文飾だと考えられる)を()て,天下を要約し、一つにするでしょう。

 これで燕、趙が齊、楚を()みすれば、齊、楚も燕、趙を()みします。その後に(いつわ)りて燕、趙を動かせば、(ただ)ちに齊、楚を揺り動かし、ここに四国は痛みをまたずして服すでしょう。」

 黃歇の滔々(とうとう)とした雄弁が聞こえたでしょうか。この雄弁には、歴史認識に誤りが有ったり、土地感覚にずれや、間違いがあり、今の我々が把握しているように正確ではありませんが、当時の人々が知っていたり、推測していたことを示しており、木簡の書で伝え合っていた情報の総合として、興味深いものがあります。(布などに書かれた地図も、当時あったかわかりません)

 ともかく、王はこれに従い、武安君を止めて韓、魏に謝し、黃歇を帰らせて、親を楚と約しました。楚は秦の矛先を、黃歇の弁舌のみで退けたのです。
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