肥義の忠
文字数 1,485文字
周の赧王の十八年(B.C.二八七)
楚の懷王は亡げ帰ろうとしました。
秦の人はこれを発見し、楚との道を遮りました。懷王は間道より趙に走げました。だが趙には主父が代におり、趙の人は敢えて保護しませんでした。懷王は魏に走げようとして、秦の人が追ってきたのについにとらえられ、そして秦の国に引き戻されました。
魯の平公が薨じ、子の緡公賈が立ちました。
十九年(B.C.二九六)
楚の懷王は病を発し、秦に薨じました。秦の人はその喪列を帰しました。楚の人はみな懷王を憐れみ、その悲しむさまは親戚であるかのようでした。諸侯はこのできごとから秦と正直なつきあいをしなくなりました。
齊、韓、魏、趙、宋が時を同じくして秦を撃ち、鹽氏に至って還りました。鹽とは塩の古字で、塩と関係のある土地だったようです。
秦は韓に武遂を与え、魏に封陵を与えて和平しました。
趙の主父は新しく占領した中山の地を視察し、遂に代の地まで至りました。西へ行って樓煩王に西河に遇いその兵を招集しました。
魏の襄王が薨じ、子の昭王が立ちました。
韓の襄王が薨じ,子の厘王・咎が立ちました。
二十年(B.C.二九五)
秦の国尉・錯(人名、司馬錯か?ちなみに司馬も官名であり、司馬の錯とも読める)が魏を襄城に伐ちました。ちなみに前に襄城は韓の土地として出てきていましたが、襄城は魏と韓との国境にあって、所有が行き来していたのではないか、そう胡三省は注を付けています。
趙の主父は齊、燕とともに中山を滅ぼし、その王を膚施に置いて幽閉しました。帰国して賞与を行い、大赦し、趙国全体で酒盛りして、祭りを行うことが五日に及びました。
趙の主父は自らの長子である章を代に封じ、号して安陽君といいました。安陽とは代の地名といいます。
安陽君は素より奢侈で、心はその弟・惠文王に服しておりませんでした。主父は田不禮を公子・章の相としました。李兌は肥義を諫めて言いました。
「公子章は強壯でその志は驕っております。公子の党は衆くして欲は大きく、田不禮は残忍・殺生の性で驕っております、二人が手を結べば、必ず陰謀が有るでしょう。そもそも小人が欲を抱けば、軽慮浅謀に駆られ、ただその利をみて動き、その害を顧みません、事難は必ず遠くないでしょう。
子の任が重く(趙の相であった)かつその勢力が大きいのは、乱が始まるところで禍の集る場所です。子はどうして疾といって出向して、政事の実権を公子・成にお伝えしないのですか、禍の梯を登るべきではございません、そうではございませんか!」
肥義は申しました。
「昔者に主父は王(惠文王)を義に委嘱されたのだ、そしておっしゃった、『あなたの度を変えないでくれ、あなたの思慮を易えないでくれ、堅く一つ心を守り,そしてあなたの世を歿えてくれ!』そうおっしゃったのだ。
義は再拜して命を受けてこのお言葉を籍(木簡?)に記した。今、田不禮の難を畏れて吾が籍に記した言葉を忘れたら、変事はいったいどのように起こるだろう!諺にいっている『死者は複た生きかえらず、生者は愧じないものだ』(王子が亡くなられて、私が生き残ってどうする)と。
吾は吾の言ったことを全うしたい、どうして吾の身を全うすることを優先して考えようか!子は賜(諫言)をくださって我に忠をくださった。そうは申されても、吾の言葉は已に前に在るのだ、最後までそれを失いたくないのだ!」
李兌はいいました。
「諾、子はそれに勉てください!吾は子とご一緒させていただくのはもう今年かぎりのようでございます。」
そして涕泣して(泣いて)退去したのです。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)