英雄・穰侯の退場 - 強引な解釈 ー
文字数 2,442文字
さて、今回は、一つ強引な解釈をお見せしてみましょう。
周の赧王 の四十六年(B.C.二六九)のことです。秦の中更 の胡傷 (胡陽 の可能性もあるという)が趙の閼與 を攻め、抜けませんでした。
ここはじっくりと考えてみる必要があります。閼與の戦いについては趙奢 の戦いぶりと共に、周の赧王の四十五年に記録があったはずです。
趙の記録としては華々しい趙奢の活躍が残されたのに対し、こちらでは秦が閼與を攻め、抜けなかったとだけ書かれています。どちらが趙で、どちらが秦の事績・記録か?
当然、四十五年の記録は趙の記録で、四十六年の記録は秦の記録であるのでしょう。趙と秦の記録では一年の時間差があったのではないでしょうか。暦 の違いにより、年が食い違うことは、必ずしもないことはないと思います。これが、私の強引な解釈です。その一年の時間差を、後代の歴史家、おそらくは『資治通鑑』の書き手がそれを比較・調整し、うまく組み合わせて、流れをつないでいるのではないでしょうか。
趙と秦の記録の間に、一年の時間差があった可能性がある、このことをよく覚えていてください。
続く四十七年(B.C.二六八)です。秦王は范睢 の謀 を用い、五大夫の綰 に魏を伐たせ、懷 を抜かせました。
続く四十八年(B.C.二六七)、秦の悼 (いたむ、いたましいという意か?)太子は魏に人質になっていましたが、なぜか卒し(亡くなり)ます。秦が攻撃したことに対し、魏でなぜか太子(跡継ぎの王子)が亡くなる。この辺の魏と秦の関係には緊張感があります。
四十九年(B.C.二六六)秦は魏の邢丘を抜きます。范睢は日々ますます親しまれ、事を用いました。そして間を縫って王に説いて申したのです。
「臣が山東におった時、齊に孟嘗君があることを聞いて、王があることを聞きませんでした。秦に太后、穰侯 があることを聞いて、王がおられることを聞きませんでした。
そもそも国を擅 ままにするものを王といい、利害をよく扱うものを王といい、殺生を制するものを王といいます。今、太后は擅 いままに行いて顧 りみず、穰侯は使を出して報じません。華陽、涇陽 は撃つこと断つこと(刑罰)において諱むことなく、高陵は進退することをわざわざ請いません。四貴(上記四人)が備わって国が危うくないものは、いまだそのようなものはなかったのです。この四貴の者の下となることは、つまりいわゆる王の権力をなみすることなのです。
穰侯の使者は王の重き(権力)を操り、制(命令?)を諸侯に決し,符を剖 いて天下に使いさせ、敵を征し国を伐てば、あえて聴 さざるものはなかったのです。戦って勝ち、地を攻め取れば利は陶(穰侯の封邑)に帰し、戦って敗れれば怨 が百姓(国民)に結ばれて禍 は社稷に帰されたのです。
臣はまた聞いております、木の実の繁るものはその枝をたわませ、その枝をたわませるものはその心(芯)を傷つけます。その都を大きくするものはその国を危うくするのです。
その臣を尊ぶものはその主 を卑しみます。淖齒 が楚を代表し齊を管理するや、王の股を射て、王の筋 を擢 きだし、これを廟 の梁 に懸け、宿昔(一夕)のあいだにして王は死した(を殺した)とのことです。李兌 が趙を管理してから、主父を沙丘に囚 らえ、百日にして餓死させました。今、臣が四貴の事を用いるのを観るに、四貴もまた淖齒、李兌の類のようでございます。
それ夏・殷・周の三代が国を亡ぼした所以 は、君がもっぱら政 を臣下に授け、酒を縦 にして弋 (糸付きの弓で狩りをすること)や猟にふけったからです。さらにその政を授けたところのものは賢を妬 み能を疾 み、それらのものたちは下を御し上の目を蔽 ってそして自らの私 をなして、主のために計らなかったのです。そしてそうではあるのに主は覚悟(知覚)せず、そのためにその国を失ったのです。
今、有秩より以上、諸大吏に至る、下は王の左右の小役人に及ぶまで、相国(穰侯)の人(仲間)でないものはなかったのです。王が独り朝廷に立つを見て、臣はひそかに王のために恐れます、萬世の後に秦国をたもつ者は,王の子孫ではないのではございませんでしょうか!」
王は然 と思われ、ここに太后を廃し、穰侯、高陵、華陽、涇陽君を関外に逐い、范睢を丞相とし、封じて應侯としました。
范睢という人物はえげつないですね。人を蹴落とし、自分を出世させたわけです。讒言の極みです。司馬温公も、こののちで厳しく范睢を糾弾しています。
ここで、思い出してほしいのです。趙と、秦の記録に、一年の時間差があったことを。
私は、この范睢の讒言の始めに、齊の孟嘗君の事績が引いてあること、淖齒について詳論してあることから、この事績は齊の史料に基づくのではないかと疑っているのですが、それは措きます。『通鑑』の一年後の個所に、何か史料がないか、見てみませんか?
話の順序が前後しますが、『通鑑』の一年後の出来事を見てみます。するとありました。
一年後の五十年(B.C.二六五)、「秦の宣太后が薨じました。九月、穰侯は出 て陶に之 きました。」
そのような記録が残っていました。ここでは范睢が何かを言ったという記録は残っていません。
秦の昭襄王の治世は、周の赧王の八年に始まっています。この年は赧王の五十年ですから、昭襄王の治世は四十二年を迎えていることになります。政争に打ち勝ち、昭襄王を立てた秦を代表する名宰相、穰侯・魏冉 。彼が昭襄王が立った時、三〇才だったとしても、この年、七二才。三〇で政権を取るということは考えにくいので、四〇歳だったとすれば、英雄、穰侯も八〇才を超えており、その兄弟たちも、相当の老齢だったと考えられます。秦を導いてきた星々にも、眠りにつく時間が近づいていたのではないでしょうか。そうであれば、自らの代表として仰いできた宣太后の薨去を機に、彼らが一斉に退職(致仕)した可能性も、否定できないのではないのでしょうか。
これは私の、強引な解釈、間違った、穿った見方にすぎません。
周の
ここはじっくりと考えてみる必要があります。閼與の戦いについては
趙の記録としては華々しい趙奢の活躍が残されたのに対し、こちらでは秦が閼與を攻め、抜けなかったとだけ書かれています。どちらが趙で、どちらが秦の事績・記録か?
当然、四十五年の記録は趙の記録で、四十六年の記録は秦の記録であるのでしょう。趙と秦の記録では一年の時間差があったのではないでしょうか。
趙と秦の記録の間に、一年の時間差があった可能性がある、このことをよく覚えていてください。
続く四十七年(B.C.二六八)です。秦王は
続く四十八年(B.C.二六七)、秦の
四十九年(B.C.二六六)秦は魏の邢丘を抜きます。范睢は日々ますます親しまれ、事を用いました。そして間を縫って王に説いて申したのです。
「臣が山東におった時、齊に孟嘗君があることを聞いて、王があることを聞きませんでした。秦に太后、
そもそも国を
穰侯の使者は王の重き(権力)を操り、制(命令?)を諸侯に決し,符を
臣はまた聞いております、木の実の繁るものはその枝をたわませ、その枝をたわませるものはその心(芯)を傷つけます。その都を大きくするものはその国を危うくするのです。
その臣を尊ぶものはその
それ夏・殷・周の三代が国を亡ぼした
今、有秩より以上、諸大吏に至る、下は王の左右の小役人に及ぶまで、相国(穰侯)の人(仲間)でないものはなかったのです。王が独り朝廷に立つを見て、臣はひそかに王のために恐れます、萬世の後に秦国をたもつ者は,王の子孫ではないのではございませんでしょうか!」
王は
范睢という人物はえげつないですね。人を蹴落とし、自分を出世させたわけです。讒言の極みです。司馬温公も、こののちで厳しく范睢を糾弾しています。
ここで、思い出してほしいのです。趙と、秦の記録に、一年の時間差があったことを。
私は、この范睢の讒言の始めに、齊の孟嘗君の事績が引いてあること、淖齒について詳論してあることから、この事績は齊の史料に基づくのではないかと疑っているのですが、それは措きます。『通鑑』の一年後の個所に、何か史料がないか、見てみませんか?
話の順序が前後しますが、『通鑑』の一年後の出来事を見てみます。するとありました。
一年後の五十年(B.C.二六五)、「秦の宣太后が薨じました。九月、穰侯は
そのような記録が残っていました。ここでは范睢が何かを言ったという記録は残っていません。
秦の昭襄王の治世は、周の赧王の八年に始まっています。この年は赧王の五十年ですから、昭襄王の治世は四十二年を迎えていることになります。政争に打ち勝ち、昭襄王を立てた秦を代表する名宰相、穰侯・
これは私の、強引な解釈、間違った、穿った見方にすぎません。